台風10号が接近しております。大きな被害が出ないようにお祈りいたします。
8月に予定していた山田原野教師の伝道師(副牧師)就任式をコロナ禍で今日に延期しました。そのため、本日の主日礼拝は就任式を兼ねて予定通り行います。
礼拝後に予定していた、学法理事会や教会役員会は延期いたします。
くれぐれもご無理のないようにお願いいたします。
それぞれの場所で捧げる祈りと礼拝が、同じように祝されることをお祈りいたします。
台風10号が接近しております。大きな被害が出ないようにお祈りいたします。
8月に予定していた山田原野教師の伝道師(副牧師)就任式をコロナ禍で今日に延期しました。そのため、本日の主日礼拝は就任式を兼ねて予定通り行います。
礼拝後に予定していた、学法理事会や教会役員会は延期いたします。
くれぐれもご無理のないようにお願いいたします。
それぞれの場所で捧げる祈りと礼拝が、同じように祝されることをお祈りいたします。
荒尾教会の副牧師(伝道師)として山田原野先生をお迎えできることを、神さまに感謝いたします。
昨年度まで、荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園の2つで同じ学校法人を構成していましたが、実質はそれぞれ運営を分けて行ってきました。けれども、山鹿教会・霊泉幼稚園で原野先生を新たに招聘するにあたって、共働型へと移しました。新任の牧師園長として働かれる原野先生を孤立させるのではなく、学法全体で支えていくためです。
また同時に、荒尾教会としても原野先生を祈り支えていくため副牧師(伝道師)として招聘することとしました。先生に担っていただくのは、あくまで第一主日礼拝奉仕および礼拝後の学法理事会および役員会のみです。まずは今年度、定期的に出会い信頼関係を構築していきたいと願っています。
注意したいのは、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園が一方的に支えていくかのように見えますが、実際はまったく違うという点です。
山鹿教会は教会員数名と荒尾教会よりも確かに小さいかもしれません。けれども、この「ともし火」を消すことなく確かに導かれる神さまに出会う時に、私たち自身の信仰は深められ、荒尾教会の宣教が大きく励まされます。
霊泉は園児約25名とめぐみよりもさらに小さい園です。けれども、小さいがゆえにとてもきめ細やかな思いやりと、落ち着いた温かい空気が流れています。霊泉との出会いからめぐみが学ぶことはとっても大きいはずです。
人間の体内では、血液が循環することによって<いのち>が育まれていきます。同じように、原野先生の就任を機に、荒尾教会と山鹿教会、そして荒尾めぐみ幼稚園と霊泉幼稚園の間で、神さまの恵みがより豊かに循環していきますようにと祈り願っています。(有明海のほとり便り no.175)
「夏の保育アカデミー」というオンライン研修の中で、講師の井桁容子先生が、「子どもへのまなざし」について次のような問題提起をされました。
井桁先生が保育者になって抱いた素朴な疑問は「なぜ、子どもへの対応がこんなにも違うのか?」というものでした。そのことを先生なりに追求していくとあることに気付かされます。「子どもへのまなざしの違い」なのだと。そして「なぜ見え方が違ってくるのか?」という問いを追求していきます。
私自身、このキリスト教保育の現場に遣わされて、先生がたそれぞれに子どもへの対応がまったく違ってくることに気づかされ、時に学ばされ、時に悩まされています。
井桁先生は、この問いへの一つのアプローチとして、「見る」と「観る」は違うことを指摘され、それぞれを次のように定義されます。
「見る」とは、目にものが見える働きのこと。
「観る」とは、目に見えないものを見出すこと。全身全霊を総動員して物事の核心を捉えるためにみること。
「私たちは目の前の子どもたちを単に見てしまっていないか?目には見えない所に確かにある子どもたちの輝き、<いのち>を見出そうと、全身全霊を総動員しているか? 子どもへのまなざしが「観る」になっていった時に、保育が変わっていく」
これはそのままキリスト教保育に繋がります。見えないもの(心の育ちや内面、結果ではなくプロセス)に目を注ぐこと、そして何よりも見えない神さまに目を注ぐこと。そして、私たちの信仰生活においても「見る」のではなく「観る」を軸に据えていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.174)
キリスト教保育連盟熊本地区でも、コロナの影響で園長会は中止が続いています。九州豪雨もある中で、祈り支え合っていきたいと役員会(オンライン)で伝えたところ、急遽24日(月)をキ保連熊本地区保育祈祷日とすることになり、『教師の友』などを参照しつつリタニーを作成しました。特に子どもたちのことを覚えて祈りを捧げましょう。(有明海のほとり便り no.173)
司会者 九州豪雨で傷ついた人や泣いている人がいっぱいいます。
みんな いえすさま、いっしょに いてください
司会者 家に帰れない人やお友だちがいます。
みんな いえすさま、いっしょに いてください
司会者 新型コロナウイルスで苦しんでいる人がいっぱいいます。
みんな いえすさま、いっしょに いてください
司会者 おじいちゃんやおばあちゃんを天国に送ったお友だち、
お仕事がなくなってしまった人、 家に一人ぼっちの人がいます。
みんな いえすさま、いっしょに いてください
司会者 わたしたちともに、世界のみんなとともに、
みんな いえすさま、いっしょに いてください
司会者 このお祈りを
一緒に いえすさまの おなまえによって おささげします。あーめん
新型コロナウイルスに感染されたお一人お一人に、そのご家族に神さまからの癒やしと守りとがあることをお祈りしましょう。
近隣で新型コロナウイルスのクラスターが発生したことを受けて、8月2,9,16日の主日礼拝を急遽家庭礼拝に切り替えました。ここ数日は荒尾や長洲で感染者は出ておらず、クラスターが発生した事業所でも通常業務を再開されています。
大牟田では依然新型コロナウイルス感染が出ていますが、人数的には1名といった日が続いています。
園でも、来週より新学期を対策しつつ通常登園とする予定です。
この状況を受けて、23日の主日礼拝より礼拝堂で行っていきたいと思います。3密を避ける対策を取りつつ、30分程度の短縮礼拝から始めていきたいと願っています。
また、9月6日に延期した、山田原野教師の副牧師就任式は行いたいと願っています。
私たちキリスト者の信仰生活にとって礼拝は欠かすことの出来ないものです。けれども、不安のある方などは決して無理なさらずにお願いします。
どこで参加しようとも、神さまは必ず共にいて下さいます。
皆さまに祝福と守りがありますことをお祈りしています。
マルコによる福音書2章13~17節 家庭礼拝メッセージ
イエスの時代、人々は高い税金を支配者であるローマ帝国に収めなければならなかった。徴税人は、ローマ帝国に請け負った額以上に、ユダヤ人同胞からきびしく取り立て私腹を肥やしていたとも言われる。徴税人は裏切り者とされ、不正を行う者として「罪びと」と蔑まれていた。
そんな徴税人レビを、イエスは「わたしに従いなさい」と招く。そしてまず食事を共にした。しかもイエスと徴税人レビだけでなく、沢山の「罪びと」たちをそこに招いて。
当時のユダヤ社会の中で、「罪びと」と呼ばれた人たちはいわゆる「犯罪者」だけではない。異邦人、皮なめし職人、慢性の病気や何らかの障がいと共に歩んでいる人たち、とても生活が困窮している人たち、そして徴税人たち。他の大半を占める「罪びと」でないユダヤ人たちにとっては、一緒に食事をするなんてとんでもない、親しくおしゃべりすることもままならない人たちが「罪びと」だった。けれどもイエスはそんな「線引き」を大胆に乗り越えていく。
神学生時代に通った教会に、小さい頃に来ていた一人の青年が、突然教会に来てくれたことがあった。彼はアルコール依存症を抱えていた。AAなどの自助グループに繋がっていくが、何度も再飲酒を繰り返してしまう内に、ついには持っていたお金も尽き果てる。そんな中で、窃盗事件も起こしてしまった。すぐに警察に捕まり、牧師が身元引受人となっていた。牧師がある日の祈祷会で、こんなことを言われた。
「きっと、彼のような人が、誰よりもまず神さまの所に呼ばれるのだと信じています」と。 そう、神さまは最も意外な人をまず招いておられる。(有明海のほとり便り no.172)
マルコによる福音書2章1~12節(家庭礼拝メッセージ)
イエスが滞在していた家は人々でびっしりと埋まり、他の人たちが中に入る隙間すらない。そこに、4人の男性たちが1人のマヒを抱えた男性を、横たわっている床ごと連れてきた。マヒを抱えているために、この男性は地域社会の中で拒絶されていた。
彼を運ぶ4人の男性たちが誰であったのかは、よく分からない。友人だったのか、親戚だったのか。どちらにせよ、彼を何とかして癒そうとしていることから、並々ならぬ繋がりがお互いにあったことが想像できる。
このマヒを抱えた男性と、彼を運ぶ4人が、びっしりと人で埋まっている家の中に入っていくことはもちろん出来ない。彼らはここで、誰も思い付かなかったことをやる。
家の中では、イエスが大勢の人たちに囲まれながら、一人一人から丁寧に話しを聴いていた。頭の上から突然パラパラとホコリや乾いた泥が落ちてくる。見上げると、ボコッと穴が空き、まぶしい光が部屋に差し込む。そこに男たちの顔が。そして、なんと驚くことに屋根から人を吊り下ろしてくる!
イエスがここで見つめていたもの。それはこの5人の男性たちの強い思い、神の助けや力を「めいいっぱい掴み取ろう」とする「イエス=神」への信頼。イエスはマヒを抱えた人の目をじっと見つめながら言った。「子よ、あなたの罪は赦されます」と。そして、新しい歩みへと押し出していく。 わたしたちも、この5人の男性たちの神への信頼を胸に刻みたい。特にマヒと共に歩む彼のたくましさに、神の支えからくる力、いのち、救いを感じ取っていきたい。(有明海のほとり便り no.171)
マルコによる福音書1章40~45節(家庭礼拝メッセージ)
神学校時代の恩師・荒井英子先生は、国立ハンセン病療養所「全生園」にある教会で、牧師をされた。当時の経験を振り返って言われていた言葉が胸に残っている。
入居者の方たちから聞いた言葉の中で最も辛かったのは、「身内が一番差別する」だったと。家族との関係を断つために、療養所に隔離されたハンセン病の方たちは、まず自分の名前を捨て、他の名前を使うことが求められた。全国にある各療養所には納骨堂が必ずあるが、骨になっても家族のもとに帰れない遺骨が23,000体余りも眠っている。一番支えになるはずの家族が、一番加害者になってしまう現実が差別にはある。「重い皮膚病」を患った彼も同じような差別・痛みの中で、イエスと出会った。
イエスは彼の申し出を断わらない。41節で彼のことを「深く憐れんだ」とあるが、ギリシャ語では「内蔵」に由来する言葉。ユダヤ社会では内臓は人間の深い深い感情が宿るところだと考えられていた。日本語でも「はらわたが突き動かされた」と言うが、同じような響きを持つ。
「憐れむ」と言うと、憐れむ側はどこか上に立ち、安全地帯にいるかのように感じる。それでは本当の「痛みの共感」にはならない。しかし、そうではない。イエスはここで、重い皮膚病の人にはらわたを突き動かされる。だからこそ、一歩踏み出していく。安全地帯にはいない。手を伸ばしてその人に触れ、「けがれ」を共有し「清くされなさい」と宣言する。すると「重い皮膚病」は治り、彼は清められたのである。
新型コロナウイルスに感染した方たちの痛みに、「はらわたが突き動かされ」安全地帯にはいないイエスの姿が見えてくる。(有明海のほとり便り no.170)
近隣で新型コロナウイルス感染が蔓延する中で、礼拝の持ち方を次のようにいたします。
①8月2日、9日、16日の会堂での主日礼拝を休止します。
②各自で家庭礼拝をお守り下さい。牧師は同時刻に会堂で家族とともに小礼拝を献げます。
③そのために週報を郵送します。
④山田原野教師の副牧師就任式および役員会は9月6日へ延期します。
8月23日には会堂での礼拝を再開したいと願っていますが、状況を見て難しいと判断した場合は、延期いたします。
荒尾市の方、また大牟田でも立て続けに8名の方が新型コロナウイルスに感染されました。その方たちの回復を祈りましょう。
教会・幼稚園としても蔓延防止のための対応を取っていかなければなりません。まず教会では短縮礼拝をもうしばらく継続させたいと思います。もし感染が市内で広がっていく場合は、再び家庭礼拝に切り替えていくことも役員会で検討したいと思います。
特に難しいのは、幼稚園での対応です。そもそも幼児教育において、三密を避けることなど不可能です。保護者・教職員にも様々な受け止め方がある中で、どのような対策が最善なのか、正直頭を抱えています。行政とも連携しつつ判断しなければなりません。
同時に、濃厚接触者あるいは感染者が園児・教職員に出た場合も想定しておく必要があります。ここで何よりも避けたいのは「感染・濃厚接触=悪」という図式です。緊急事態宣言が解除され、それぞれが悩みつつ三密を避けつつ社会生活を営んでいます。むしろ正直に感染や濃厚接触の情報を伝えてくださったこと、さらなる感染を防ごうとしてくださっていることを感謝すべきです。そうすることで、「次の感染隠し」も防げるはずです。
先日国連が「自然破壊や気候変動が続けば、新型コロナウイルス感染症のような病気が増える」と報告しています。世界規模の自然破壊をつくり出しているのは、資本主義の過剰な利益追求であることは明らかです。そのような社会・世界を造り出してしまっている私たち自身の罪を神と隣人とに告白し、そこにこそ目を向けて、神の国の建設へと向かっていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.169)