画家・金斗鉉さんによる『荒尾教会』

待ちに待った金斗鉉(キム・トウゲン)先生による絵が、昨日届きました!

まず驚いたのはその大きさです。測ってみると、20号(長辺約70cm)になっていました。金先生が荒尾に来てくださったのはちょうど1年前ですが、その際に「教会だけでなく幼稚園も入れますか?すこし大きくなりますが…」と聞いて下さり、迷いなく「お願いします!」と答えたのを覚えていて下さったのです。すると牧師館まで絵に入れて下さっていました。間違いなく他の教会よりも描くのが大変だったはずです。実は5号(長辺35cm)くらいのものを想像していたので、頭が下がる思いです。

早速、絵を観ると…、広い美しい空のもとに、十字架が立っています。決して大きくはない、むしろ小さい十字架が、ドアの鍵穴のようにしっかりと、そこにあります。そして教会・幼稚園・牧師館がそれぞれ誇示しすぎず、でも確かな存在感をもって描かれています。木や花の緑が美しいアクセントにもなって…。

ここに住んでいると、あまりにも日常になってしまっていて忘れてしまうのですが、教会・幼稚園が一つのキリストの身体として建てられていること、何よりも神さまの愛と救いを表している場であることに気付かされます。この絵で描かれている光景が、教会員や園児たちだけでなく、通り掛かるすべての人たちの魂に刻まれるものであってほしいと願います。どうぞご鑑賞下さい。

おそらく11月か12月号の『信徒の友』にこの荒尾教会の絵が掲載されると先生から伺いました。そこには先生のエッセーも加わります。こちらも楽しみにしたいと思います。

梨狩り

9月21日、地区教育部主催で荒尾にて梨狩りが行われました。最初に担当の大田牧師(武蔵ヶ丘)より打診の電話をいただいた時には、あくまで子どもたちを対象とした行事だったので、多くても20名くらいかなと話しました。蓋を開いてみたら、なんと7教会子ども17名・大人34名の51名もの方たちが参加されました。特に各教会ともに新型コロナウイルスの影響で行事がほとんどキャンセルされている中で、楽しみにして下さったようです。

本田観光梨園では、ほとんどの方が生まれてはじめての梨狩りに、子どもたちだけでなく大人も興味津々でした。2つお土産として地区からいただけるとのことで、出来るだけ大きい梨(?)を探しました。

その後、荒尾教会に移動してそれぞれお弁当をいただきました。心配していたほどは密にならず、ちょうどよい距離を空けられたと思います。昼食のあとには、各教会から参加者紹介をしました。荒尾教会からは子ども8名・大人7名の4家庭が参加しましたので、各家庭からも挨拶の言葉をいただきました。ふと気付けば挨拶をして下さった方たちみんな「卒園生」で、神さまの不思議な導きを感じました。次に4つにグループ分けをしてゲームをしました。子どもも大人もみんな楽しみました。

地区でも一番長い牧師たちに聞くと、このように荒尾を会場に地区教育部の行事をしたことははじめてではないかとのことでした。熊本地区の教会・信徒の多くは熊本市内に集中しているので、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園に来れてとても嬉しかったと、何人もの方から言われました。

教会・幼稚園として、神さまから大きな祝福をいただいた一日でした。(有明海のほとり便り no.178)

礼拝と現場の両方によって

『信徒の友 10月号』では「献身者を支える」という特集が組まれています。その中で、佐々木結(ひとし)さんという同志社大神学部生の文章が胸を打ちました。

佐々木さんは東京の弓町本郷教会に通う両親のもとで育ちますが、スムーズに召命が与えられたわけではありません。むしろ「疑うならとことん疑ってみようと考え」同志社神学部へと進みます。神学の学びに励み「知識は増しましたが信仰は深まりませんでした。」

そんな佐々木さんの転機となったのは、「バザールカフェ」との出会いです。そこは、京都教区が運営に関わり、元宣教師館を使って、セクシュアリティ、年齢、国籍など、多様な人たちが集うカフェです。私が親しくしている友人たちも関わっているカフェで、一度ぜひ訪問したいと願っています。

佐々木さんはその中心メンバーとなり、いまでは運営委員も務めるようになります。そして変わっていくのです。

神学部で学び始めてから5年半がたち、ようやく気づきました。神学生の学びにおいて重要なのは教室と現場の両方で、それぞれの学びが互いに関わって両輪のように回転していくことなのだ、と。

佐々木さんの言葉を私たちの日々に置き換えるならば、信仰生活において重要なのは礼拝と現場の両方なのです。そして「現場」とは、私たち一人一人が月曜から土曜まで遣わされている家庭や職場・学校などでしょう。それぞれの「現場」は単なる場や空間ではありません。そこにも働かれる神さまの息吹に深く耳を傾けていくこと、そして隣人を愛することを通して、私たちの信仰も確かに深まっていくのではないでしょうか。(有明海のほとり便り no.177)

オンライン礼拝や紹介動画

新型コロナウイルスの蔓延によって、どの教会も礼拝の守り方を変更せざるを得なくなりました。先日の地区委員会・教師部委員会でも、ほとんどの教会でプログラムを短縮したり家庭礼拝に切り替えたりすることで、対応している様子が分かち合われました。

さらにいくつかの教会では、インターネット配信も活用しています。例えば熊本草葉町教会では、Youtubeチャンネルを開設し、会堂に集うことの出来ない方たちのために同時中継(ライブ配信)をし、また後日観ることが出来るようにもされています。あるいはインターネットへのアクセスが難しい方のために、礼拝を録音したCDを後日郵送している教会もあります。

そういった話しを伺いながら、荒尾教会ではどんなことが出来るだろうか、いやそもそもそういった工夫をしたくても、そのための時間をつくれるだろうか…、宿題として持ち帰ってきました。

幼稚園の方ではすでに次年度の園児募集が始まっていますが、コロナの影響もあり見学者がまだ1組しか来ていません。例年に比べると大分出遅れてしまっており、危機感を抱いています。少しでも出来ることをと考え、HPを充実させ、Youtube動画を2つ作成しました。9月1日に公開した1本目はすでに「269回」視聴されています。その多くはおそらく関係者だとは思うのですが、それでもそれだけの方たちに届けることが出来て感謝です。2本目は今朝公開しました。一人でも多くの方に届けばと祈り願っています。

荒尾教会の紹介動画を作ったら観て下さる方もいるはずです。また、フィリピンにいるKさんたちと例えば月に一回でもオンラインで繋がって礼拝を一緒に捧げられたらと夢がふくらんでいます。

ご協力とお祈りをお願いします!(有明海のほとり便り no.176)

原野先生をお迎えして

荒尾教会の副牧師(伝道師)として山田原野先生をお迎えできることを、神さまに感謝いたします。

昨年度まで、荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園の2つで同じ学校法人を構成していましたが、実質はそれぞれ運営を分けて行ってきました。けれども、山鹿教会・霊泉幼稚園で原野先生を新たに招聘するにあたって、共働型へと移しました。新任の牧師園長として働かれる原野先生を孤立させるのではなく、学法全体で支えていくためです。

また同時に、荒尾教会としても原野先生を祈り支えていくため副牧師(伝道師)として招聘することとしました。先生に担っていただくのは、あくまで第一主日礼拝奉仕および礼拝後の学法理事会および役員会のみです。まずは今年度、定期的に出会い信頼関係を構築していきたいと願っています。

注意したいのは、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園が一方的に支えていくかのように見えますが、実際はまったく違うという点です。

山鹿教会は教会員数名と荒尾教会よりも確かに小さいかもしれません。けれども、この「ともし火」を消すことなく確かに導かれる神さまに出会う時に、私たち自身の信仰は深められ、荒尾教会の宣教が大きく励まされます。

霊泉は園児約25名とめぐみよりもさらに小さい園です。けれども、小さいがゆえにとてもきめ細やかな思いやりと、落ち着いた温かい空気が流れています。霊泉との出会いからめぐみが学ぶことはとっても大きいはずです。

人間の体内では、血液が循環することによって<いのち>が育まれていきます。同じように、原野先生の就任を機に、荒尾教会と山鹿教会、そして荒尾めぐみ幼稚園と霊泉幼稚園の間で、神さまの恵みがより豊かに循環していきますようにと祈り願っています。(有明海のほとり便り no.175)

見る≠観る

「夏の保育アカデミー」というオンライン研修の中で、講師の井桁容子先生が、「子どもへのまなざし」について次のような問題提起をされました。

井桁先生が保育者になって抱いた素朴な疑問は「なぜ、子どもへの対応がこんなにも違うのか?」というものでした。そのことを先生なりに追求していくとあることに気付かされます。「子どもへのまなざしの違い」なのだと。そして「なぜ見え方が違ってくるのか?」という問いを追求していきます。

私自身、このキリスト教保育の現場に遣わされて、先生がたそれぞれに子どもへの対応がまったく違ってくることに気づかされ、時に学ばされ、時に悩まされています。

井桁先生は、この問いへの一つのアプローチとして、「見る」と「観る」は違うことを指摘され、それぞれを次のように定義されます。

「見る」とは、目にものが見える働きのこと。

「観る」とは、目に見えないものを見出すこと。全身全霊を総動員して物事の核心を捉えるためにみること。

「私たちは目の前の子どもたちを単に見てしまっていないか?目には見えない所に確かにある子どもたちの輝き、<いのち>を見出そうと、全身全霊を総動員しているか? 子どもへのまなざしが「観る」になっていった時に、保育が変わっていく

これはそのままキリスト教保育に繋がります。見えないもの(心の育ちや内面、結果ではなくプロセス)に目を注ぐこと、そして何よりも見えない神さまに目を注ぐこと。そして、私たちの信仰生活においても「見る」のではなく「観る」を軸に据えていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.174)

いえすさま、いっしょにいてください

キリスト教保育連盟熊本地区でも、コロナの影響で園長会は中止が続いています。九州豪雨もある中で、祈り支え合っていきたいと役員会(オンライン)で伝えたところ、急遽24日(月)をキ保連熊本地区保育祈祷日とすることになり、『教師の友』などを参照しつつリタニーを作成しました。特に子どもたちのことを覚えて祈りを捧げましょう。(有明海のほとり便り no.173)

司会者 九州豪雨で傷ついた人や泣いている人がいっぱいいます。

みんな いえすさま、いっしょに いてください

司会者 家に帰れない人やお友だちがいます。

みんな いえすさま、いっしょに いてください

司会者 新型コロナウイルスで苦しんでいる人がいっぱいいます。

みんな いえすさま、いっしょに いてください

司会者 おじいちゃんやおばあちゃんを天国に送ったお友だち、

お仕事がなくなってしまった人、 家に一人ぼっちの人がいます。

みんな いえすさま、いっしょに いてください

司会者 わたしたちともに、世界のみんなとともに、

みんな いえすさま、いっしょに いてください

司会者 このお祈りを

一緒に いえすさまの おなまえによって おささげします。あーめん

誰をまず招かれるのか

マルコによる福音書2章13~17節 家庭礼拝メッセージ

イエスの時代、人々は高い税金を支配者であるローマ帝国に収めなければならなかった。徴税人は、ローマ帝国に請け負った額以上に、ユダヤ人同胞からきびしく取り立て私腹を肥やしていたとも言われる。徴税人は裏切り者とされ、不正を行う者として「罪びと」と蔑まれていた。

そんな徴税人レビを、イエスは「わたしに従いなさい」と招く。そしてまず食事を共にした。しかもイエスと徴税人レビだけでなく、沢山の「罪びと」たちをそこに招いて。

当時のユダヤ社会の中で、「罪びと」と呼ばれた人たちはいわゆる「犯罪者」だけではない。異邦人、皮なめし職人、慢性の病気や何らかの障がいと共に歩んでいる人たち、とても生活が困窮している人たち、そして徴税人たち。他の大半を占める「罪びと」でないユダヤ人たちにとっては、一緒に食事をするなんてとんでもない、親しくおしゃべりすることもままならない人たちが「罪びと」だった。けれどもイエスはそんな「線引き」を大胆に乗り越えていく。

神学生時代に通った教会に、小さい頃に来ていた一人の青年が、突然教会に来てくれたことがあった。彼はアルコール依存症を抱えていた。AAなどの自助グループに繋がっていくが、何度も再飲酒を繰り返してしまう内に、ついには持っていたお金も尽き果てる。そんな中で、窃盗事件も起こしてしまった。すぐに警察に捕まり、牧師が身元引受人となっていた。牧師がある日の祈祷会で、こんなことを言われた。

「きっと、彼のような人が、誰よりもまず神さまの所に呼ばれるのだと信じています」と。 そう、神さまは最も意外な人をまず招いておられる。(有明海のほとり便り no.172)

めいいっぱい掴み取る

マルコによる福音書2章1~12節(家庭礼拝メッセージ)

イエスが滞在していた家は人々でびっしりと埋まり、他の人たちが中に入る隙間すらない。そこに、4人の男性たちが1人のマヒを抱えた男性を、横たわっている床ごと連れてきた。マヒを抱えているために、この男性は地域社会の中で拒絶されていた。

彼を運ぶ4人の男性たちが誰であったのかは、よく分からない。友人だったのか、親戚だったのか。どちらにせよ、彼を何とかして癒そうとしていることから、並々ならぬ繋がりがお互いにあったことが想像できる。

このマヒを抱えた男性と、彼を運ぶ4人が、びっしりと人で埋まっている家の中に入っていくことはもちろん出来ない。彼らはここで、誰も思い付かなかったことをやる。

家の中では、イエスが大勢の人たちに囲まれながら、一人一人から丁寧に話しを聴いていた。頭の上から突然パラパラとホコリや乾いた泥が落ちてくる。見上げると、ボコッと穴が空き、まぶしい光が部屋に差し込む。そこに男たちの顔が。そして、なんと驚くことに屋根から人を吊り下ろしてくる!

イエスがここで見つめていたもの。それはこの5人の男性たちの強い思い、神の助けや力を「めいいっぱい掴み取ろう」とする「イエス=神」への信頼。イエスはマヒを抱えた人の目をじっと見つめながら言った。「子よ、あなたの罪は赦されます」と。そして、新しい歩みへと押し出していく。 わたしたちも、この5人の男性たちの神への信頼を胸に刻みたい。特にマヒと共に歩む彼のたくましさに、神の支えからくる力、いのち、救いを感じ取っていきたい。(有明海のほとり便り no.171)

はらわたが突き動かされる

マルコによる福音書1章40~45節(家庭礼拝メッセージ)

神学校時代の恩師・荒井英子先生は、国立ハンセン病療養所「全生園」にある教会で、牧師をされた。当時の経験を振り返って言われていた言葉が胸に残っている。

入居者の方たちから聞いた言葉の中で最も辛かったのは、「身内が一番差別する」だったと。家族との関係を断つために、療養所に隔離されたハンセン病の方たちは、まず自分の名前を捨て、他の名前を使うことが求められた。全国にある各療養所には納骨堂が必ずあるが、骨になっても家族のもとに帰れない遺骨が23,000体余りも眠っている。一番支えになるはずの家族が、一番加害者になってしまう現実が差別にはある。「重い皮膚病」を患った彼も同じような差別・痛みの中で、イエスと出会った。

イエスは彼の申し出を断わらない。41節で彼のことを「深く憐れんだ」とあるが、ギリシャ語では「内蔵」に由来する言葉。ユダヤ社会では内臓は人間の深い深い感情が宿るところだと考えられていた。日本語でも「はらわたが突き動かされた」と言うが、同じような響きを持つ。

「憐れむ」と言うと、憐れむ側はどこか上に立ち、安全地帯にいるかのように感じる。それでは本当の「痛みの共感」にはならない。しかし、そうではない。イエスはここで、重い皮膚病の人にはらわたを突き動かされる。だからこそ、一歩踏み出していく。安全地帯にはいない。手を伸ばしてその人に触れ、「けがれ」を共有し「清くされなさい」と宣言する。すると「重い皮膚病」は治り、彼は清められたのである。

新型コロナウイルスに感染した方たちの痛みに、「はらわたが突き動かされ」安全地帯にはいないイエスの姿が見えてくる。(有明海のほとり便り no.170)