Deep River

礼拝準備をしていると、どうしても行き詰まってしまう時があります。そのような時には、音楽を聴いたりして、気分の切り替えをするのですが、BGMのように聞き流す音楽だと中々うまくいきません。

そのような中で、数ヶ月前に出会ったチェリストの音楽に深く感動しました。シェク・カネー=メイソンというアフリカ系イギリス人・21歳のチェリストです。数多くの賞を受賞している中で、ボブ・マーリーの『ノー・ウーマン、ノー・クライ』、レナード・コーエンの『ハレルヤ』などもカバーし、大きな注目を浴びました。

その中の一曲に、「黒人霊歌(traditional)」で有名な「Deep River」があります。奴隷としてアメリカへ連れこられた「黒人」たちが、魂と信仰を込めて歌い繋いできた曲です。

Deep river, my home is over Jordan.
深い河よ、故郷は ヨルダン川の かなたに

Deep river, Lord,
深い河よ、主よ、

I want to cross over into camp ground.
越えて向こう側へ、 みなのところへ

Oh, don't you want to go to that gospel feast.
ああ、あなたは 福音の宴に行きたくないのですか

That promised land where all is peace.
約束の地 すべてが平和に包まれている地へ

シェクはチェロでこの曲を奏でるので、歌詞はありません。けれども、その演奏に霊的な深み・感動を覚え涙が止まりませんでした。もしインターネットが使えるならYoutubeでぜひ検索してみて下さい。(有明海のほとり便り no.182)

黙示的想像力

敬愛する友人・有住航牧師(下落合教会)による「黙示的想像力を取り戻すーパンデミック資本主義と対峙する解放の神学」という小論が『福音と世界』10月号に掲載されました。航さんとは学生YMCAなどの繋がりで10数年前に出会い、いつも多くの刺激をもらっています。論文の内容は決して易しくはありません。けれども、非常に重要な指摘がなされています。

新型コロナウイルス感染のパンデミック(世界的大流行)の中で、「ウイルスとの戦争」「非常事態」「自粛」「世界の終わり」といった言葉によって、私たちはいつの間にか「『世界を終わらせない』ための惜しみない協力と奉仕を提供させられつづけて」います。そして「神とウイルスの戦争」を強調する神学的・黙示的言説も叫ばれています。

けれども、ヨハネ黙示録に描かれる「黙示」とは、「世界の終わり」を意味するものではありません。

ほんらい隠されていたものが思いがけないおどろくべきかたちで「暴露」され「発覚」することを指し示す躍動的概念である。

…このパンデミックによって明らかにされていることは、医療・福祉にかかる予算を削減・縮小してきた医療制度「改革」が招いた医療崩壊の事態であり、人々のいのちよりも経済を優先する国家=資本の無制限な欲望であり、この「危機」に乗じて人びとの管理を強めようとする統治権力の目論見である。…「黙示」とは「暗黙のうちに示される」静的なお告げではなく、これまで黙らされてきた人びとがこの世界の現実を見抜き暴露することであり、「旧い世」を終わらせ「新しい世」を到来させる躍動的な希望そのものである。黙らされている現実のただなかにこそ、沈黙を打ち破る黙示のことばが生み出されてゆく。

(有明海のほとり便り no.181)

新しい2つの種目

今年の運動会は、新型コロナウイルスによって大きな影響を受けました。両親だけでなく祖父母も楽しみに参加される行事です。密を避けるため、きりん組(年長)とうさぎ組(年中)のみとすることにしました。

特に2つのこと(①子ども主体、②普段の遊びが運動会へと繋がっていく)を大切にしようと心がけました。「子ども主体」の部分では、きりん組で輪になってミーティングを行い、子どもたち自身が運動会で何をしたいかどんな種目に挑戦したいかを聞きました。出てきたアイディアは素晴らしく、めぐみ幼稚園の歴史の中で初めての種目が2つ(!)生まれました。

「虫と魚を見つけるぞ!」は、いわゆる借り物競争で、子どもの人数分の虫かごに、トンボやバッタ、金魚などを入れて保護者の方たちに持っていただきます。そして子どもたちがカードを引いてそれを見つけにいくというものでした。今のきりん組は虫好きが多く、外遊びの95%を虫探ししている子もいるくらいです。例年だったら運動会前日や当日朝の先生方は直前のリハーサルに力を入れるのですが、みんなで必死になって虫を探して走り回っている姿に、子どもたちも喜んでいました。

「できたよ、みてみて!」は、子どもたちが自分で発表したい運動を決めて行いました。空手の型、ブリッジ、側転、ダンス、どれも素敵でした。特に斜面上りは、お父さんたちと作った遊具で、日々遊び込まれているものです。そこに一人ひとりが一生懸命に挑戦していく姿、上に登った時に見せた満足顔に、深い感動が会場を包みました。

神さまがつくられた、かけがえのない子どもたち一人ひとりの<いのち>が、一生懸命に頑張る姿そのままで美しいことを再確認しました。(有明海のほとり便り no.180)

画家・金斗鉉さんによる『荒尾教会』

待ちに待った金斗鉉(キム・トウゲン)先生による絵が、昨日届きました!

まず驚いたのはその大きさです。測ってみると、20号(長辺約70cm)になっていました。金先生が荒尾に来てくださったのはちょうど1年前ですが、その際に「教会だけでなく幼稚園も入れますか?すこし大きくなりますが…」と聞いて下さり、迷いなく「お願いします!」と答えたのを覚えていて下さったのです。すると牧師館まで絵に入れて下さっていました。間違いなく他の教会よりも描くのが大変だったはずです。実は5号(長辺35cm)くらいのものを想像していたので、頭が下がる思いです。

早速、絵を観ると…、広い美しい空のもとに、十字架が立っています。決して大きくはない、むしろ小さい十字架が、ドアの鍵穴のようにしっかりと、そこにあります。そして教会・幼稚園・牧師館がそれぞれ誇示しすぎず、でも確かな存在感をもって描かれています。木や花の緑が美しいアクセントにもなって…。

ここに住んでいると、あまりにも日常になってしまっていて忘れてしまうのですが、教会・幼稚園が一つのキリストの身体として建てられていること、何よりも神さまの愛と救いを表している場であることに気付かされます。この絵で描かれている光景が、教会員や園児たちだけでなく、通り掛かるすべての人たちの魂に刻まれるものであってほしいと願います。どうぞご鑑賞下さい。

おそらく11月か12月号の『信徒の友』にこの荒尾教会の絵が掲載されると先生から伺いました。そこには先生のエッセーも加わります。こちらも楽しみにしたいと思います。

梨狩り

9月21日、地区教育部主催で荒尾にて梨狩りが行われました。最初に担当の大田牧師(武蔵ヶ丘)より打診の電話をいただいた時には、あくまで子どもたちを対象とした行事だったので、多くても20名くらいかなと話しました。蓋を開いてみたら、なんと7教会子ども17名・大人34名の51名もの方たちが参加されました。特に各教会ともに新型コロナウイルスの影響で行事がほとんどキャンセルされている中で、楽しみにして下さったようです。

本田観光梨園では、ほとんどの方が生まれてはじめての梨狩りに、子どもたちだけでなく大人も興味津々でした。2つお土産として地区からいただけるとのことで、出来るだけ大きい梨(?)を探しました。

その後、荒尾教会に移動してそれぞれお弁当をいただきました。心配していたほどは密にならず、ちょうどよい距離を空けられたと思います。昼食のあとには、各教会から参加者紹介をしました。荒尾教会からは子ども8名・大人7名の4家庭が参加しましたので、各家庭からも挨拶の言葉をいただきました。ふと気付けば挨拶をして下さった方たちみんな「卒園生」で、神さまの不思議な導きを感じました。次に4つにグループ分けをしてゲームをしました。子どもも大人もみんな楽しみました。

地区でも一番長い牧師たちに聞くと、このように荒尾を会場に地区教育部の行事をしたことははじめてではないかとのことでした。熊本地区の教会・信徒の多くは熊本市内に集中しているので、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園に来れてとても嬉しかったと、何人もの方から言われました。

教会・幼稚園として、神さまから大きな祝福をいただいた一日でした。(有明海のほとり便り no.178)

礼拝と現場の両方によって

『信徒の友 10月号』では「献身者を支える」という特集が組まれています。その中で、佐々木結(ひとし)さんという同志社大神学部生の文章が胸を打ちました。

佐々木さんは東京の弓町本郷教会に通う両親のもとで育ちますが、スムーズに召命が与えられたわけではありません。むしろ「疑うならとことん疑ってみようと考え」同志社神学部へと進みます。神学の学びに励み「知識は増しましたが信仰は深まりませんでした。」

そんな佐々木さんの転機となったのは、「バザールカフェ」との出会いです。そこは、京都教区が運営に関わり、元宣教師館を使って、セクシュアリティ、年齢、国籍など、多様な人たちが集うカフェです。私が親しくしている友人たちも関わっているカフェで、一度ぜひ訪問したいと願っています。

佐々木さんはその中心メンバーとなり、いまでは運営委員も務めるようになります。そして変わっていくのです。

神学部で学び始めてから5年半がたち、ようやく気づきました。神学生の学びにおいて重要なのは教室と現場の両方で、それぞれの学びが互いに関わって両輪のように回転していくことなのだ、と。

佐々木さんの言葉を私たちの日々に置き換えるならば、信仰生活において重要なのは礼拝と現場の両方なのです。そして「現場」とは、私たち一人一人が月曜から土曜まで遣わされている家庭や職場・学校などでしょう。それぞれの「現場」は単なる場や空間ではありません。そこにも働かれる神さまの息吹に深く耳を傾けていくこと、そして隣人を愛することを通して、私たちの信仰も確かに深まっていくのではないでしょうか。(有明海のほとり便り no.177)

オンライン礼拝や紹介動画

新型コロナウイルスの蔓延によって、どの教会も礼拝の守り方を変更せざるを得なくなりました。先日の地区委員会・教師部委員会でも、ほとんどの教会でプログラムを短縮したり家庭礼拝に切り替えたりすることで、対応している様子が分かち合われました。

さらにいくつかの教会では、インターネット配信も活用しています。例えば熊本草葉町教会では、Youtubeチャンネルを開設し、会堂に集うことの出来ない方たちのために同時中継(ライブ配信)をし、また後日観ることが出来るようにもされています。あるいはインターネットへのアクセスが難しい方のために、礼拝を録音したCDを後日郵送している教会もあります。

そういった話しを伺いながら、荒尾教会ではどんなことが出来るだろうか、いやそもそもそういった工夫をしたくても、そのための時間をつくれるだろうか…、宿題として持ち帰ってきました。

幼稚園の方ではすでに次年度の園児募集が始まっていますが、コロナの影響もあり見学者がまだ1組しか来ていません。例年に比べると大分出遅れてしまっており、危機感を抱いています。少しでも出来ることをと考え、HPを充実させ、Youtube動画を2つ作成しました。9月1日に公開した1本目はすでに「269回」視聴されています。その多くはおそらく関係者だとは思うのですが、それでもそれだけの方たちに届けることが出来て感謝です。2本目は今朝公開しました。一人でも多くの方に届けばと祈り願っています。

荒尾教会の紹介動画を作ったら観て下さる方もいるはずです。また、フィリピンにいるKさんたちと例えば月に一回でもオンラインで繋がって礼拝を一緒に捧げられたらと夢がふくらんでいます。

ご協力とお祈りをお願いします!(有明海のほとり便り no.176)

本日の礼拝について

台風10号が接近しております。大きな被害が出ないようにお祈りいたします。

8月に予定していた山田原野教師の伝道師(副牧師)就任式をコロナ禍で今日に延期しました。そのため、本日の主日礼拝は就任式を兼ねて予定通り行います。

礼拝後に予定していた、学法理事会や教会役員会は延期いたします。

くれぐれもご無理のないようにお願いいたします。

それぞれの場所で捧げる祈りと礼拝が、同じように祝されることをお祈りいたします。

原野先生をお迎えして

荒尾教会の副牧師(伝道師)として山田原野先生をお迎えできることを、神さまに感謝いたします。

昨年度まで、荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園の2つで同じ学校法人を構成していましたが、実質はそれぞれ運営を分けて行ってきました。けれども、山鹿教会・霊泉幼稚園で原野先生を新たに招聘するにあたって、共働型へと移しました。新任の牧師園長として働かれる原野先生を孤立させるのではなく、学法全体で支えていくためです。

また同時に、荒尾教会としても原野先生を祈り支えていくため副牧師(伝道師)として招聘することとしました。先生に担っていただくのは、あくまで第一主日礼拝奉仕および礼拝後の学法理事会および役員会のみです。まずは今年度、定期的に出会い信頼関係を構築していきたいと願っています。

注意したいのは、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園が一方的に支えていくかのように見えますが、実際はまったく違うという点です。

山鹿教会は教会員数名と荒尾教会よりも確かに小さいかもしれません。けれども、この「ともし火」を消すことなく確かに導かれる神さまに出会う時に、私たち自身の信仰は深められ、荒尾教会の宣教が大きく励まされます。

霊泉は園児約25名とめぐみよりもさらに小さい園です。けれども、小さいがゆえにとてもきめ細やかな思いやりと、落ち着いた温かい空気が流れています。霊泉との出会いからめぐみが学ぶことはとっても大きいはずです。

人間の体内では、血液が循環することによって<いのち>が育まれていきます。同じように、原野先生の就任を機に、荒尾教会と山鹿教会、そして荒尾めぐみ幼稚園と霊泉幼稚園の間で、神さまの恵みがより豊かに循環していきますようにと祈り願っています。(有明海のほとり便り no.175)

見る≠観る

「夏の保育アカデミー」というオンライン研修の中で、講師の井桁容子先生が、「子どもへのまなざし」について次のような問題提起をされました。

井桁先生が保育者になって抱いた素朴な疑問は「なぜ、子どもへの対応がこんなにも違うのか?」というものでした。そのことを先生なりに追求していくとあることに気付かされます。「子どもへのまなざしの違い」なのだと。そして「なぜ見え方が違ってくるのか?」という問いを追求していきます。

私自身、このキリスト教保育の現場に遣わされて、先生がたそれぞれに子どもへの対応がまったく違ってくることに気づかされ、時に学ばされ、時に悩まされています。

井桁先生は、この問いへの一つのアプローチとして、「見る」と「観る」は違うことを指摘され、それぞれを次のように定義されます。

「見る」とは、目にものが見える働きのこと。

「観る」とは、目に見えないものを見出すこと。全身全霊を総動員して物事の核心を捉えるためにみること。

「私たちは目の前の子どもたちを単に見てしまっていないか?目には見えない所に確かにある子どもたちの輝き、<いのち>を見出そうと、全身全霊を総動員しているか? 子どもへのまなざしが「観る」になっていった時に、保育が変わっていく

これはそのままキリスト教保育に繋がります。見えないもの(心の育ちや内面、結果ではなくプロセス)に目を注ぐこと、そして何よりも見えない神さまに目を注ぐこと。そして、私たちの信仰生活においても「見る」のではなく「観る」を軸に据えていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.174)