使徒信条

今日は久しぶりに「使徒信条」を皆さんと共に唱えたいと思います。

記録を探ると、2020年4月5日の主日礼拝を最後に、コロナ感染拡大から「使徒信条」を省略し、短縮礼拝としてきたことが分かりました。新型コロナウイルス感染症の理解や対策も進み、まだまだ感染対策は必要ですが、少しずつこれまでの礼拝で大切にしてきたことを戻していきたいと願っています。

けれども、そもそも「なぜ使徒信条か?」という問いを考えることも大切ではないでしょうか。ただ漠然と礼拝に向かうのではなく、そこに心を込めて行っていくことが信仰生活において必要だからです。

使徒信条の歴史はとても古く、「古代教会信徒たちの遺言」といってもよいかもしれません。教会史の中で、様々な信仰信条が生み出されてきましたが、その中でも「より古く素朴な初期教会からの信仰を反映」(『岩波キリスト教辞典』)しています。

わたしは元来教条的なものが苦手で、「信条」のような固定化されたものにそもそも抵抗があります。けれども、古代教会のキリスト者たちのほとんどが字を読めず、聖書へのアクセスはいまのように簡単ではありませんでした。「主の祈り」や「使徒信条」が、信仰生活にとって強い支えになったことは間違いありません。古代教会のキリスト者たちと共に「使徒信条」を唱えることを大切にしたいと願っています。

この中でも「陰府にくだり」という部分は紀元390年にまで遡ることが出来るそうです。現代では「陰府(よみ)」と言われてもピンと来ませんが、人生の中で出会う苦難や「地獄のような日々」に置き換えて考えることが出来ます。イエス・キリストはそのような日々のただ中にもいて下さるのです。インマヌエル(神共に)のメッセージがここにも込められています。(有明海のほとり便り no.299)

『国葬』と信教の自由

昨日、「『国葬』と信教の自由」と題して、濱野道雄教師(西南学院大学神学部長)を2・11集会にお招きし、深い学びを与えられました。

まず驚いたのは、紹介された「国葬」当日の式次第を見ると、皇族関係の時間を長く割いており、天皇制中心の式であったという点です。政教分離とは、国が一つの宗教に肩入れして不平等な扱いをすることを防ぐための大切な原則ですが、これで果たして「無宗教」と呼べるのか甚だ疑問です。そもそも人の死を悼む行為は非常に宗教的であり、靖国神社問題とも繋がりますが、国家が介入することは控えなければなりません。安倍元首相の葬儀はすでに家族で行われており、国葬は必要ありませんでした。

熊本県弁護士会はじめ全国の弁護士会が「国葬」に反対声明を出し指摘しましたが、法的根拠がなく、国会の審議も経ずに政府の独断であり、民主主義をないがしろにしたことにも問題を孕んでいます。

国が国葬を行うことによって、「命の序列化」がなされる危険性も学びました。当初予算は2.5億だったものが最終的には12.4億(!)にも膨らみ、莫大な税金を使って行った国葬は、一人の命を国がそれだけ重要視したことを意味します。けれども神さまの前で、人の命はどれもかけがえのないものであり、重い・軽いは一切ありません

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ13:29-30)

最後に濱野先生が、たとえ各教会・信徒がどの立場であろうとも(正統主義・自由主義・解放あるいは物語の神学)を国葬に反対する理由があることを教えて下さり、神の平和(シャローム)の文化をつくっていくことを呼びかけたことが、心に残りました。(有明海のほとり便り no.298)

一回一回が仕始めで、仕納め

 渡辺和子シスターが著書『面倒だから、しよう』の中で、次のたとえ話を紹介しています。

江戸時代、堺の町に吉兵衛という人がいました。商売も繁昌していたのですが、妻が寝たきりの病人になってしまいました。
使用人も多くいたのにもかかわらず、吉兵衛は、妻の下の世話を他人には任せず、忙しい仕事の合間を縫って、してやっていました。周囲の人々がいいました。「よく飽きもせず、なさっていますね。お疲れでしょう」それに対し、吉兵衛は、こう答えたといわれています。
「何をおっしゃいます。一回一回が仕始めで、仕納めでございます」
…随分前のことになりますが、一人の神父が、初ミサをたてるにあたっていった言葉も、私に反省を促します。「自分はこれから、何万回とミサをたてることになるだろうが、その一回一回を、最初で、唯一で、最後のミサのつもりでたてたいと思う」

丁寧に生きること、それは神さまに与えられた「いま」を十全に生きることなのだと思います。神さまに与えられたこの<いのち>が、有限であること、そこにすでにかけがえのなさが込められているのです。吉兵衛や、渡辺シスターが出会った神父の言葉が、そのことを思い出させ、そして自分自身、中々丁寧に生きることが出来ていないことを反省させられました。

園では卒園式が間近になり、きりんさん(年長)が旅立つ日も近づいて来ました。残りの日々が、「仕始めで、仕納め」として、「最初で、唯一で、最後」の時として、丁寧に過ごしていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.296)

神のもとに戻る祈り

『信徒の友2月号』に「神のもとに戻る祈り」という沈黙の祈りが紹介されていました。「祈りのエクササイズ レッツ、トライ」というシリーズを、中村佐知さんというアメリカ在住の翻訳家の方が担当されています。

「聖なる言葉」を決める
神の臨在を私たちに想起させるような言葉であれば、なんでも構いません(「イエス」「愛」「平安」など)。…沈黙の最中にあちこちに向いてしまう意識を神のもとに戻すための「錨」の役割も果たします。

②数回唱える
目を閉じて楽な姿勢で座り、心を落ち着けた後、「聖なる言葉」を心の中でゆっくりと数回唱えます。…

③沈黙する
目を閉じたまま、意識を無にして20分間沈黙します。途中で何かを考えていることに気づいたら、そっと「聖なる言葉」を唱え、考えていたことを手放し、神のもとに戻りましょう④祈りを終える
20分が過ぎたら、そっと目をあけ、しばらく沈黙を保ちつつ祈りを終えます。

神学校時代「禅とキリスト教」という授業がありました。禅を組むことによって、沈黙し、霊性を養うことを目的としたものでした。やってみると「沈黙」することがこんなにも難しいことなのかと、驚きました。常に何かを思い煩っている自分に気付かされました。そして、一旦手放すことによって、再びそこに立ち向かっていく不思議な力が湧いてくるのです。

と言ってもいきなり20分沈黙することは難しいかも…☺ 中村さんも5分くらいから始めることをすすめておられます。(有明海のほとり便り no.296)

『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』

シンガーソングライターの沢知恵さんが、岡山大で書かれた修士論文をもとに岩波ブックレットにまとめたのが、『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』です。全国にあるハンセン病療養所の園歌の歴史を、資料だけでなく多くの方たちとのインタビューを通して、丁寧に調査し綴っている本で、お勧めの一冊です。

 日本社会において、ハンセン病の方たちへの差別があり、そして根強い排除と隔離がありました。この歴史の中で、多くのキリスト者たちがとても献身的に働きました。けれども同時に、この排除に加担していったのもキリスト者たちだったことを改めて気付かされました。

興味深かったのは、日本最南端の療養所・宮古南静園での園歌の作詞者は、「園長先生」であったことが調査の中で明らかになっていく過程です。

口をそろえて園歌の作詞者は「園長先生」だといいます。前泊サダさん(1921-)は手でゆっくり拍子を取りながら、かみしめるようにしてうたってくださいました。そして、三節最後の「上と下との隔てなく 理想の楽土築かなむ」のところで涙を流し始め、その部分をくり返しました。「園長先生がつくった。職員と患者の間に隔てがあったから、『上と下との隔てなく』とうたった。」前迫さんは力をこめていいました。「園長先生」とは、医師の家坂幸三郎(1878-1952)のことです。1931年に県立宮古保養院として開設されたのち、33年に国立療養所になった直後から約四年半の間、園長をつとめました。熱心なキリスト教徒だった家坂は、所内の教会で自ら入所者に聖書や読み書きを教え、他の療養所にはあった鉄条網や監禁室をつくりませんでした。(pp.64-65) 

差別の現実のただ中で、キリスト者としてどのように生きるのか。大切な問いをいただきました。(有明海のほとり便り no.295)

正対(せいたい)

キ保連九州部会の主任研修会がオンラインであり参加しました。

「言いたいことをきちんと伝える言葉の整理術~伝えるから伝わるへ~」と題し、講師は山本衣奈子さん(E-ComWorks代表)でした。キ保連ではあまり取り上げたことのないトピックに関してでしたので、どのような内容になるのか未知でした。けれども、わたし達はキリスト教保育の現場で、子どもたちとのコミュニケーションはもちろんですが、(むしろ?)大人(教職員や保護者)とのコミュニケーションに、日々悩まされています。まさにそのような現場で必要とするアドバイスが沢山あり、豊かな研修となりました。

・よいコミュニケーションに必要なのは、①親近感と②安心感が何よりも大切。
・コミュニケーションの基本はABC。
  A(当たり前のことを)、B(バカにしないで)、C(ちゃんとやる)。正対(おへそを相手に向けること)を心がける。職場での挨拶の際に、目線も身体も向けずに言葉だけのやり取りになってしまっていないか。単なる声かけになってしまっていないか。
・コミュニケーション力が高い人は、小さいことでも、目をかけ、気をかけ、言葉をかける人

これを聞きながら、子どもの育ちにおいても、安全や栄養はもちろん大切だけれども、何よりも「愛着=親近感や安心感」が必要であることを思い起こしていました。

つまり、よいコミュニケーションは人間に欠かせないものなのです。

2000年前、イエス・キリストは、ガリラヤで一人ひとりと正対し、目をかけ、気をかけ、言葉をかけました。深いコミュニケーションを通し出会い、癒やし、神の愛と救いを分かち合ったのです。(有明海のほとり便り no.294)

Streak Running

2022年1月8日(土)にBと二人で始めたstreak runningが、昨日2023年1月7日(土)で「365日」に到達しました!アメリカで広まっているのを知って始めたstreak runningのルールはすごくシンプルです。

◯とにかく毎日(雨でも風でも)
◯歩いてもOK(タイムでもスピードでもない)
◯1マイル(1.61km)➡︎約10分でいい ※もっと走ってもOK

大雨ではカッパを着て、体調不良でも誰にも会わないコースを二人でウォーキング…というかお散歩をしました。不思議と家よりも饒舌に喋ってくれます。出張や修学旅行の際には、それぞれの場所で行いました。

寝不足でも朝ランは、頭と身体をリセットしてくれるので大変おすすめです。10分というあっという間の時ですが、毎週の週報に載せている「今週の祈りの課題」を覚えて、走りながらお祈りもしています。どうもわたしには、このようなお祈りの仕方が合っているようです。

ここまで継続できたのも、「無理をしなかったから」の一言に尽きます。そして、タイムや距離などの「大きな目標を立てなかった」ことも大切なことでした。ご褒美を楽しみにしていることも大切かもしれませんが(^_-)

わたしたちの信仰生活においても、同じことが言えるのではないでしょうか。神の国が来ますようにと祈りつつ、調子がよければ走り、調子が悪かったり環境が整わなければ歩き、神さまにタイムや距離などの成果は委ね無理せず楽しみながら、一歩ずつ歩んでいく。逆風でも、大雨でも、病の時でも、明け方でも、夜中でも…。

2023年の信仰生活が守られ導かれますように、お祈りしています。(有明海のほとり便り no.293)

創立76周年記念礼拝説教・講演会 動画公開

11月27日に行った荒尾教会創立76周年記念礼拝説教および講演会の動画をYoutubeに公開しました。ぜひご覧いただければ幸いです。

★チャプター
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00:00 | はじめに・自己紹介
02:14 | 心がけてきたこと
08:02 | 牧師にはケアをする存在が必要
11:47 | 出会いを生み出すのは神学論議ではなく現場
14:00 | 東京には空どころか地上の空間すらない
15:50 | 写真家・大嶋もと子さん ローカルフォト活動
18:16 | 雑誌「ソトコト」
20:52 | 太田愛人著『辺境に生きる』
24:05 | 「労働」をめぐって
26:00 | 辺境に生きた人 ガリラヤの村、ナザレのイエス
31:24 | 阪神淡路大震災での体験(1995年)
38:10 | 互いに助け助けられる教会間の繋がり
42:24 | 森崎和江著『まっくら』
44:49 | 関係人口~地域の「発酵」を促す人たち~
47:32 | キリスト教界で生まれたさまざまなつながり(関係人口)
49:15 | Open for All
51:12 | 「軒の教会」へ~日本バプテスト連盟東八幡教会~
54:48 | 教会の関係人口を増やす
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寿越冬

2023年が始まりました。「神の国」「キリストの平和」が、この荒尾の地で、九州で、日本で、そしてウクライナやミャンマーをはじめ世界で実現することを切に祈ります

横浜中華街の裏に寿町と呼ばれる日雇い労働者の町があります。年末年始には、様々な公共サービスが閉じる中で、路上生活のホームレスの方たちや、貧困の中で歩む方たちの年越しを支えるために「寿越冬闘争」があり、炊き出しや相談、夜間の安否確認を兼ねた路上での訪問活動などを行っています。コロナ禍で感染対策が必要な中にも関わらず、まさにこの年末年始にも行われています。まさにいま寒さの中で<いのち>を削られている方たち、孤立している方たちを覚えて祈りましょう。また、そこに集われているボランティアの方たちやコーディネートされる実行委員の方たちのことも覚えて祈りましょう。

日本キリスト教団では神奈川教区寿地区センターがこの越冬活動を担われています。数年前までは、わたしや原野先生と同じ農村伝道神学校出身のM教師が主事として長く働かれておられました。不思議なことに、越冬活動に参加すると、M教師はじめ多くの教会関係者がそこにはおられるのですが、他のボランティアの方たちとすっかり溶け込んでおられるので、最初はまったく気付かないのです。少しずつお話しをしていく中で、初めて知らされ驚くことが多々ありました。そして、大学生たちや医療従事者の方たち、多くのボランティアの方たちの働き・願い・祈りに頭が下がる思いでした。

何よりも印象に残っているのは、寿地区に生きる方たちとの出会いです。たくましさや知恵に教えられ、ユーモアにみんなで笑い…。決して楽ではない、むしろ辛い現実の中だからこその出会いでした。(有明海のほとり便り no.292)

関田寛雄牧師を覚えて

12月14日、関田寛雄牧師が94歳で召天されました。青山学院大学で教えつつ、桜本教会川崎戸手教会の創立に尽力し、神奈川教区巡回教師として、全国の諸教会・伝道所を支えておられました。何よりも出会いと現場を大切にされ、在日コリアンの人権回復運動や「日の丸・君が代」強制反対運動、平和運動など、関田先生の働きの幅はとても広く深いものでした。

巡回教師として、神奈川教区の中でも礼拝出席が少ない教会・伝道所の主日礼拝にそれぞれ出席し、励ましておられることを聞いていました。わたしが農村伝道神学校の最初の2年間を過ごしたまぶね教会も、関田先生に無牧期間を支えていただいた教会の一つです。父が関わる「全国キリスト教学校人権教育セミナー」にも、関田先生が必ず出席して下さっていました。

4年前にお招きした金性斉牧師(NCC総幹事)が、関田先生と韓国で開催された「日韓の和解と平和を求める祈祷会」に一緒に参加され、その時のことをFacebookに綴っておられます。

祈祷会を後にするとき、空港まで車で送ってくれる信徒に急かされていた私は関田先生に申し上げた、「先生、今出なければ飛行機に間に合いません」…関田先生は「平和の少女像の前で祈っていきたいんです....わたしはもう二度とここに来れませんから....」  私たち(名古屋の大島純男先生と共に)はそのようにしてあの日“平和の少女像”に立ち寄り祈りました......関田先生に導かれ間に合わない時間とはならなかったのです。

写真の中央で跪いて祈っておられるのが関田先生です。いま政府は軍拡と「愛国心」を強引に進めようとしていますが、神の平和と和解を祈り求め行動された、先生の歩みに倣っていきたいと願います。(有明海のほとり便り no.291)