昨日、「『国葬』と信教の自由」と題して、濱野道雄教師(西南学院大学神学部長)を2・11集会にお招きし、深い学びを与えられました。
まず驚いたのは、紹介された「国葬」当日の式次第を見ると、皇族関係の時間を長く割いており、天皇制中心の式であったという点です。政教分離とは、国が一つの宗教に肩入れして不平等な扱いをすることを防ぐための大切な原則ですが、これで果たして「無宗教」と呼べるのか甚だ疑問です。そもそも人の死を悼む行為は非常に宗教的であり、靖国神社問題とも繋がりますが、国家が介入することは控えなければなりません。安倍元首相の葬儀はすでに家族で行われており、国葬は必要ありませんでした。
熊本県弁護士会はじめ全国の弁護士会が「国葬」に反対声明を出し指摘しましたが、法的根拠がなく、国会の審議も経ずに政府の独断であり、民主主義をないがしろにしたことにも問題を孕んでいます。
国が国葬を行うことによって、「命の序列化」がなされる危険性も学びました。当初予算は2.5億だったものが最終的には12.4億(!)にも膨らみ、莫大な税金を使って行った国葬は、一人の命を国がそれだけ重要視したことを意味します。けれども神さまの前で、人の命はどれもかけがえのないものであり、重い・軽いは一切ありません。
「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ13:29-30)
最後に濱野先生が、たとえ各教会・信徒がどの立場であろうとも(正統主義・自由主義・解放あるいは物語の神学)を国葬に反対する理由があることを教えて下さり、神の平和(シャローム)の文化をつくっていくことを呼びかけたことが、心に残りました。(有明海のほとり便り no.298)