使徒信条

今日は久しぶりに「使徒信条」を皆さんと共に唱えたいと思います。

記録を探ると、2020年4月5日の主日礼拝を最後に、コロナ感染拡大から「使徒信条」を省略し、短縮礼拝としてきたことが分かりました。新型コロナウイルス感染症の理解や対策も進み、まだまだ感染対策は必要ですが、少しずつこれまでの礼拝で大切にしてきたことを戻していきたいと願っています。

けれども、そもそも「なぜ使徒信条か?」という問いを考えることも大切ではないでしょうか。ただ漠然と礼拝に向かうのではなく、そこに心を込めて行っていくことが信仰生活において必要だからです。

使徒信条の歴史はとても古く、「古代教会信徒たちの遺言」といってもよいかもしれません。教会史の中で、様々な信仰信条が生み出されてきましたが、その中でも「より古く素朴な初期教会からの信仰を反映」(『岩波キリスト教辞典』)しています。

わたしは元来教条的なものが苦手で、「信条」のような固定化されたものにそもそも抵抗があります。けれども、古代教会のキリスト者たちのほとんどが字を読めず、聖書へのアクセスはいまのように簡単ではありませんでした。「主の祈り」や「使徒信条」が、信仰生活にとって強い支えになったことは間違いありません。古代教会のキリスト者たちと共に「使徒信条」を唱えることを大切にしたいと願っています。

この中でも「陰府にくだり」という部分は紀元390年にまで遡ることが出来るそうです。現代では「陰府(よみ)」と言われてもピンと来ませんが、人生の中で出会う苦難や「地獄のような日々」に置き換えて考えることが出来ます。イエス・キリストはそのような日々のただ中にもいて下さるのです。インマヌエル(神共に)のメッセージがここにも込められています。(有明海のほとり便り no.299)