九州教区平戸伝道所協力牧師である犬養光博教師が2018年に出版した『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』を出張の移動中に一気に読みました。犬養先生は同志社を卒業後すぐに筑豊に移り、福吉伝道所を立ち上げ46年間そこで働きを続けました。また、犬養先生はわたしの恩師である故・大津健一牧師(元NCC総幹事・アジア学院校長)とも親しかったと伺っています。
筑豊だけでなく、カネミ油症闘争、指紋押捺拒否闘争、菊池恵楓園にある菊池黎明教会での詩篇の学び、愛農聖書研究会など、その働きは常に現場に根ざしたものでした。
福吉伝道所は、先ほどお話ししたように日曜日には十人足らずの集まりです。けれども、厳しい時代が来て、教会が追いつめられたときにも、今と同じように十名の集会をもてたとすれば、それはとても尊いのではないか。…問題が出てくると消えてしまう「教会」ではなくて、どのような問題に直面してももちこたえ得る「教会」。それは何なのでしょうか。「教会」はどんな現実を拠りどころとし、どんな「現実」から出発すればよいのでしょうか。(p.72)
荒尾教会として、この犬養先生からの問いかけを考えていきたいと願っています。犬養先生は無教会の故・高橋三郎先生からも大きな影響を受けています。
ぼくの信仰は、一方で高橋三郎先生を通して与えられたイエス・キリストと、他方、現場、その現場で出会ったイエス・キリストと、二つの中心をもっている。これが一つになれば良いのだが、ずっと緊張関係を引きずってきた。そして近ごろはそれで良かったのではないかと思うようになってきた。(p.28)
このような「緊張関係」はわたしたちの信仰生活においても立ち上がってくるものではないでしょうか。(有明海のほとり便り no.325)