正教師試験、二種教職制

原野先生との会話の中で、一年後に迫ってきている正教師試験について話すことが多くなってきました。正教師試験の範囲は多岐にわたります。

まずレポート課題を4科目「旧約釈義・説教」、「新約釈義・説教」、「神学論文」、「組織神学」、事前に提出します。当日の筆記試験は、「教憲教規および諸規則・宗教法人法」、「旧約聖書神学」、「新約聖書神学」、「教会史」の4科目です。どれも予習がかかせません。しかも最初の3科目は手元に教規や法人法あるいは聖書が与えられますが、教会史は手元に何も(!)ありません。しかも教会史は範囲が広く、私の場合はほとんどカバーしていなかった(過去問にもなかった!)分野で、問題を見た途端、冷や汗をかきました。それでも何とか「書きまくった」のですが、レポート提出が求められました。これら4科目を1日で終わらせるのですから、終わった途端ヘロヘロでした。

試験官の教師たちがひと晩かけて採点・講評を加えていきます。そして二日目。面接試験では、昨日のテスト結果についてコメントをいただき、聖礼典理解や福音理解について問われます。神の愛が広く深いように、それを表す聖礼典や福音も広く深いものがあります。けれども、どうしても教条的な回答のみを求められているように感じ、その点は残念でした。

また、日本キリスト教団が抱える課題として「二種教職制問題」があります。戦時中、国の圧力のもとで日本基督教団が作られますが、その影響の中で、二種教職などそもそも存在しない教派にも押し付けた制度でした。さらに補教師も教師に関わらず聖礼典執行が出来ないという矛盾も生み出しました。あえて補教師のままで牧会を続けている牧師たちもいます。九州教区では教団総会に問題提起を続けていることも覚えていきましょう。(有明海のほとり便り no.229)

『牧師、閉鎖病棟に入る』

「牧師」にとっては、とてもショッキングなタイトルの本が出版されました。しかも、この本の著者は同じ日本キリスト教団の沼田和也牧師です。

恐る恐る本を開くと、沼田先生の経験が自分のものとオーバーラップし、これは買わねばと思ったのです。沼田先生は関西学院大神学部を卒業後、少子化が進む地方にある小教会の牧師と、「それなりに大きな幼稚園の理事長兼園長」(p.12)を担っておられました。

しかしとくにここ数年、幼稚園教育は専門性を増していき…もはや素人の手に負えるものではなくなってきていた。…我が園も来るべき経営難に備えて、県や市からの援助も潤沢な幼保連携型認定こども園への変更準備を進めていたのである。ところがそのための膨大な書類や職場管理の厳密さは、それこそしょせん保育の素人に過ぎないわたしの手に余った。(p.12-13)

その重責の中で、「自分は牧師なんだろうか?むしろ幼稚園職員ではないのか?」(p.130)と迷いながら、沼田先生は常に緊張した日々を過ごし、笑顔も失っていきます。ある日、一気に爆発してしまい園を飛び出します。

逡巡した後に、お連れ合いからの支えもあり、精神科の主治医に相談すると、閉鎖病棟に入院することになります。教会と幼稚園は辞されました。特に私に響いたのは、一人の牧師として自分自身を振り返る姿でした。

牧師として、悩んだり苦しんだりしている人をケアしたり指導したりしているとこれまで思ってきたが、それは神の前で思い上がることであった。わたしもまた、弱い一人の人間に過ぎなかった。(p.204) 

牧師園長として「相応しい振る舞い」があり、自分なりに努めてはいるつもりですが、神の前で思い上がっているのではないか、重荷を重荷として分かち合い、弱い一人の人間として歩めているか、振り返る機会となりました。(有明海のほとり便り no.228)

聖書から生まれるキリスト教保育

先日、キ保連熊本地区秋季保育者研修がオンラインでありました。講師は神奈川にある和泉短期大で教えられている松浦浩樹先生でした。実は2年前の秋季保育者研修にお招きし、内容が素晴らしかったことから、もう一度聞きたいと地区の園長会で話し合い実現したことでした。

講演題は「キリスト教保育を再考する」で、いまのめぐみ幼稚園にとってもドンピシャなテーマでした。

講演の最後の方で語られた、あるキリスト教園のエピソードが心に響きました。その園では、世代交代が始まっており、すでに園長はキリスト者でない方が引き継いでおられます。子どもへの温かい優しさは、いまも引き継がれ実践されています。けれども、その「温かさ」「優しさ」が一体どこから来るのか、という視点が薄れてきているように感じると…。

めぐみ幼稚園も含め多くのキリスト教園では、保育者の多くはキリスト者ではありません。けれども、キリスト教園の持つ「温かさ」や雰囲気に共鳴し、キリスト教保育を担って下さっているのです。

では、それらは一体どこから来ているのでしょうか?

津守真という著名な保育学者が次のように言われているそうです。

聖書を読むことは人間を存在の原点に立ち返らせ、保育の場全体の洞察を助けてくれる」(『保育の中に生きる聖書(8)』)

そうです!キリスト教園の持つよさがあるとすれば、それはすべて聖書から来ているのです。当たり前といえば当たり前ですが、日々現場で起こる様々なドラマにアタフタしている内に、薄まってしまうことも事実です。そこに抗いつつ、愚直に聖書のメッセージをみなで分かち合っていくことが、牧師園長に課せられている使命であることを再確認することが出来ました。(有明海のほとり便り no.227)

親友Mとの再会

教区伝道センター委員会がオンラインであり、初めて参加しました。教区宣教協力部門委員会より必ず1名参加することになっており、今まで戸田奈都子教師(川内教会・のぞみ幼稚園)がして下さっていたのですが、部門委員長になっていただいたと同時に、私に役目が回ってきたのです…(^_^;)。夕方6時半開始だったので、ぎりぎりまで園の仕事をして、ミーティングルームに入ってみると、そこには久しぶりの顔ぶれが揃っていました。2年前に長崎銀屋町教会で行われた反核・平和セミナーで会ったきりの方もいました。奄美・長崎・熊本・北九州・福岡と、九州各地から委員が集まっています。コロナ禍で、直接は会えませんが、オンラインだからこそ与えられた恵みでした。

しかも驚いたのは、親友Mも画面に写っていたのです。神学校で同級生だったMは、性格も出身もまったく違いますが、とても気が合い心許せる友です。最初の任地も互いに東北教区でした。Mは神奈川の教会に転任していったのですが、体調を崩し、いま奄美大島で少しずつ体調を整えているのです。奄美地区の宣教に彼なりに関わりながら、また地区の教師に支えられながら歩むMの姿に、自分自身ホッと励まされました。

ちなみにMは委員ではないので、挨拶をしたらすぐに抜けたのですが、委員会終了後にまた(!)戻ってきて、残っているメンバー数人でよもやま話に花を咲かせました。Mから「(神学校の)寮で真史が自分の洗濯を一緒にしてくれた」と言われたのですが、まったく(!)記憶にありません。 よく覚えているのは、部屋に引きこもりがちだったMを時々連れ出して、広い敷地内をグルグルと二人で散歩したことです。何を話したかは覚えていませんが、不思議とその時の光景は目に焼き付いています。思いがけないMとの再会に感謝。(有明海のほとり便り no.226)

ズッコケ三人組

私が生まれた当時住んでいたのは埼玉県坂戸市にある団地でした。そこから、小学2年生に上がる時に、母方の祖母たちと同居するために東京の東村山に引っ越してきたのです。東村山に移ってよかったのは、市立図書館がとても身近にあり、自転車で通える範囲にいくつもあったことです。

小学5年生の頃でしょうか、読書にハマり、夏休みや土曜日の朝に図書館に行っては3冊借りて、一日の間に読んで夕方に返しに行ったこともありました。ハマった本の一つが「ズッコケ三人組」シリーズです。ハチベエ・ハカセ・モーちゃんと呼ばれる3人が様々なハプニングを乗り越えていくストーリーに引きつけられました。よく通う図書館の「ズッコケ」コーナーに行っては、新たな本が入っていないか、読んでいない本が返却されていないか探すのが常でした。

この3人が、性格や興味・関心、学校の成績や体格、さらには家庭環境においてもてんでバラバラなのが面白く、人間の持つ多様性や柔軟性そして友情に出会ったのも「ズッコケ」シリーズでした。

先月、作者の那須正幹さんが74歳で召されたことを知って、そのことを思い出したのです。記事を読むと、那須さんは広島市で生まれ、3歳のときに爆心地から約3キロのところで被爆されたそうです。同級生の多くは被爆して親を亡くしていました。ズッコケ三人組のモーちゃんは、離婚による母子家庭で元気に育っているという設定でしたが、背景には那須さんの幼少時の出会いがあったのかもしれません。

那須さんは精力的に書き続けた作家でしたが、『絵で読む広島の原爆』や『ねんどの神さま』など、平和をテーマにした作品もあることを知りました。早速、読みたいと願っています。(有明海のほとり便り no.225)

岩高牧師時代(1971-1973年度)

岩高澄(きよし)牧師より、「原稿・文書」と書かれたレターパックが届きました。いま岩高先生はこれまでの人生を振り返る文章を綴っておられ、荒尾時代部分の原稿を送って下さったのです。早速読ませていただき、荒尾教会牧師・荒尾めぐみ幼稚園園長として深く共感するとともに、それ以上に、一人の牧会者として奮闘される姿に、励まされました。

岩高先生の初任地は越生(おごせ)教会(埼玉)、そして須崎教会(高知)と、それぞれに附属幼稚園があるため関わってこられましたが、園長となるのは荒尾が初めてだったそうです。

「荒尾教会での三年間は、まさに幼稚園に明け暮れておりました。一つにはそれが荒尾教会の存亡に係わることでしたが、施設の改善というだけのことではなく、教育そのものが根本から問い直される時期でもあったのです」

原稿には岩高先生が過ごした3年間をイキイキと綴られています。

園バス運転手が不在で一人で運転を引き受けた苦労、荒尾市私立幼稚園連合会での問題提起、発達障がいと共に歩む子どもたちとの出会い、保護者との繋がりや支え合い、「三段の土地」が職業訓練校の実習地にしてもらい均してもらったこと、長く出席していなかった教会員が復帰して下さったこと、教会学校の夏季キャンプを阿蘇YMCAで行ったこと、礼拝堂に附属した6畳間と広い廊下が牧師館だったのを、教会員みなで献金を募り牧師館を建築したこと。

荒尾教会で歴史を振り返る時、直接的な出会いが深い小平牧師や星牧師時代の話しがついつい多くなります。けれども、岩高牧師の働きや信仰の先達たちの働きも、いまの荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の根っこに確かに流れていることを、神さまに感謝したいと願っています。(有明海のほとり便り no.224)

車中で語る神さまの創造

K:(有明海を見ながら)「ねえねえパパ。宇宙と地球はどっちが大きいの?」

M:「宇宙だよ。宇宙の中に、地球があって、月もあって、太陽もあるんだよ。」

K:「宇宙や地球は神さまが創ったんでしょ?

M:「そうだよ、神さまが創ったんだよ。」

B:「神さまはどんなふうに宇宙を創ったの?最初はどうだったの?」

M:「うーん。それは人間にはまだまだ分からないんだ。宇宙の最初はビッグバンだったみたいだけど…。」

「私たち人間に分かっていることは、本当にわずかなんだ。ほら、あそこのお庭に木が一本植わっているでしょう。あの木一本にしたって、人間にはまだまだ分からないことが詰まっているんだよ。さらに木が集まって、あそこの四ツ山みたいになったら何になるんだっけ?」

K:「…何だっけ?」

M:「森になるよね」

B:「パパ、木が集まったらまず林になるんだよ。それから森の順番だよ!」

M:「確かにそうだけど(^_^;)…林に木が増えたら森になるよね。最近の研究で分かったんだけれど、森の木は木同士でお話ししているんだって。根っこから目には見えない物質(菌根)を出して、『助けて』とかを伝えているんだって。(神さまって)すごいねぇ。」

K&B:「へぇ、それはすごいね~」

科学者ニュートンは、自分は未知の大海原を前にして海岸で遊んでいる子どもに過ぎないと言いました。科学は神の創造の不思議・美しさを味わう学問であり、そして、私たち人間が神ではないという、当たり前だけれども肝心なことを伝えているのです。(有明海のほとり便り no.223)

「正しい戦争」はない

江藤直純著『ルターの心を生きる』を(ようやく?)読み終えました。実は、一ヶ月前に著者の江藤先生からメールを頂きました。先生が本について検索したところ、荒尾教会のHPに繋がり、私を見つけて嬉しかったと。すぐにでも返信したかったのですが、読み終わっていないのに、しかも適当なことを書くわけにもいかない(!)と、より丁寧に読みました。

「アウグスブルグ信仰告白」を聞いたことがあるでしょうか。私自身、神学校の歴史神学で(ちらっと;)学んだ程度でしたが、今回この信仰告白が「ルーテル教会にとっては重要」(p.322)であることを学びました。ルターを思想的に支えたメランヒトンがアウグスブルグで起草したものです。

信仰告白第16条「国の秩序とこの世の支配について」には「キリスト者は、政府、諸侯、裁判官の地位に罪を犯すことなく就くことができ、判断や判決を下し、悪人を剣によって罰し、正しい戦争を行い…」とあります。この「正しい戦争」を巡って、次のよう綴られていました。

「ルター研究所訳の『アウグスブルグ信仰告白』に収められている鈴木浩先生の解説の中で、中世以来厳密な規定の下に神学的に肯定されてきた『正しい戦争』は、核兵器をはじめとする大量兵器の出現と、戦闘員と非戦闘員とを区別しない戦略の変化により、ポスト・ヒロシマ/ナガサキの現代ではもはや支持され得ない」(p.353)。

そうです!どの戦争も常に「正しい」ものとして、「国を守るため」として始められていきますが、その結果傷つくのは誰でしょうか? 76年前の広島・長崎で、日本各地で、そしてアジア・太平洋で殺された<いのち>を思う時、「正しい戦争」など存在しません。非暴力を貫かれたイエスによる「神の平和」を祈り作り出していきましょう。(有明海のほとり便り no.222)

ルターの負の遺産

引き続き江藤直純著『ルターの心を生きる』を読み進めています。

大きなインパクトを残したマルティン・ルターですが、神格化することは避けなければなりません。特にこの8月にルターの負の遺産として受け止めなければならないのは、「ユダヤ人との関わり」です。

反ユダヤ主義の歴史は古く紀元前のヘレニズム・ローマ時代まで遡ります。そこに「キリスト教以後の反ユダヤ主義は合流し、それはキリスト教世界となった中世でもさらに強まりながら続き、中世末期のルターたちもその中で生きた」(p.219)。「ユダヤ人は『キリスト殺し』の責めを負わされ、やがてヨーロッパというキリスト教が圧倒的多数を占める社会の中で、キリスト教に改修せず…排除され、さまざまな差別と偏見、ときに迫害を受けていきます」(p.220)。

しかし初期のルターは「抜きん出てユダヤ人に好意的」(p.221)でした。「イエス・キリストはユダヤ人として生まれた」というタイトルの小冊子を発行し、「彼らは実際には我々よりもキリストに近い」とまで言っています。

けれども晩年のルターは厳しい口調で「シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)や学校を焼き払い」、「住宅を破壊し」、「祈祷書やタルムードを没収し」、青年たちに労働を強いることを言ってしまいました。「幸いというべきでしょうが、この勧告は実践に移されることはほぼありませんでした」(p.225)。けれども、近代に入りナチス・ドイツによって、600万人を超えるユダヤ人虐殺の根拠に、このルターの言葉が使われてしまったのです。

ドイツの教会はこの歴史を深く反省し、「ホロコーストへの「共同責任と罪責」の告白…ユダヤ人が今も「神の民」として選ばれており…キリスト教への改宗を求めての電動は不必要」(p.232)と宣言しつつ歩まれています。(有明海のほとり便り no.221)