イエスの「非暴力」

「イエスは「暴力の時代」に生きた」

 先日、九州教区反核・平和セミナーがオンラインであり、講師の志村真教師(飯塚・直方教会)が、講演の冒頭で指摘したことです。自分の認識を新たにされました。

・前63年からのローマ帝国支配、前57年の総督ガビニウスによるナザレ近郊タボル山で約1万人の虐殺、前4年のセフォリス(ナザレから6km)の破壊で約2000人の十字架刑死を、イエスは間近で聞いていた。
・圧倒的なローマ帝国に対して、ゲリラ戦やテロが展開されている、そのような暴力の渦中にイエスは生まれ、育ち、そして宣教の旅路へと出かけていった。
・イエスのメッセージは「暴力」でも「服従」でもなく、「非暴力」に徹している。
・「レギオンにとりつかれた人の癒やし」(マルコ5章)には、軍事用語が使われており、戦争被害による戦争性精神疾患だったと考えられる。イエスの癒やしの多くは、暴力被害者の癒やし。
・「バルティマイの癒やし」(マルコ10章)において、バルティマイは故意の身体的毀損と奴隷的使役である可能性がある。「人々が叱りつけて」とあるように、凄まじい差別・暴力を受けいていたバルティマイがイエスとの出会いから癒やされ、そしてエルサレム入場最後の弟子としてイエスに従った。
・「あなたの敵を愛せよ」(マタイ5章)を巡って、当時のユダヤにとっての敵は①サマリアおよびサマリア人、そして②ローマ帝国およびローマ人だった。イエスはサマリア人へのヘイトスピーチを即座に叱り(ルカ9:55)、「善いサマリア人」(ルカ10章)を通してユダヤ人の偽善性を問う。また、ローマ兵の百人隊長の部下も癒やす(ルカ7章)。

2000年経ったいまも「暴力の時代」が続いている中で、イエスが指し示す「非暴力」のメッセージに耳と心を開いていきましょう。(有明海のほとり便り no.271)

アリス・フィンレー宣教師

鹿児島加治屋町教会より『敬愛幼稚園創立100周年記念誌 光のこどもたち』をいただきました。1916年の創設ですから、荒尾めぐみ幼稚園よりもずっと古い歴史のある教会です。いくつも深い共感を覚える文章に出会い、キリスト教保育という同じ根っこに気付かされました。

記念誌の中で、特に興味深かったのが創立者アリス・フィンレー宣教師に関するものです。フィンレー宣教師は1878年アメリカ・オハイオ州で生まれ、1910年31歳で鹿児島に米国メソジスト教会からの宣教師として遣わされました。1916年に敬愛幼稚園が始まった時には園舎もなく、フィンレー宣教師が住む宣教師館で5名の園児を預かることから始まったそうです。以来、文字通り献身的に敬愛幼稚園と教会に仕え、1940年に休暇でアメリカへ一時帰国しますが、半年後に開戦した太平洋戦争のため日本への再入国が出来なくなってしまいました。アメリカでいくつかの教会や施設に遣わされますが、それぞれの地で日本のことを祈り伝えていかれたそうです。卒園生からは「私達のお母さま」と親しまれました。1959年80歳で召天されました。Kさんという当時の卒園生が朝日新聞の記事に次のように記しています。

先生はとても優しい方で、毎朝、私たちが登園すると、高い背をかがめて一人ひとりに声をかけ、ぎゅっと抱きしめてくださいました。…育ち盛りの子どもたちのために、すきやき会をされたり、元気がない女の子には添い寝をしてあげたり。温かい母のような振る舞いは、多くの人の心に残っています。…30代のころに結核を患い指宿で療養していた私に、当時の日本ではなかなか手に入らなかったストレプトマイシンを米国で入手しておくってくださいました。

フィンレー宣教師は鹿児島の地で、神さまの愛を分かち合う働きをされたのです。(有明海のほとり便り no.270)

それでも対話し続けるWCC

友人の有住航教師(下落合教会・農村伝道神学校)がカトリック月刊誌『福音宣教』7月号に寄稿しているのを知り、早速読みました。タイトルは『エキュメニズムの召命―出会い・対話・和解のために』。世界的なエキュメニカル(超教派)運動体「世界教会協議会(WCC)」の、ロシアによるウクライナ侵攻への対応についての詳細レポートです。WCCには日本キリスト教団をはじめ多くの加盟教団がありますが、その一つにロシア正教会があります。WCCはロシアによる武力侵攻の前から、「信頼に基づく対話によって問題解決がなされるよう呼びかけて」きました。残念ながらロシア正教会は、ロシアによる侵攻を支持し続けています。WCC総幹事代行のイオアン・サウカは、「毎週のように声明を発表しながら、ロシア―ウクライナ双方の大統領に電話をかけ、戦争の即時停止と対話による平和構築を訴えつづけ」ています。

WCCでも、ウクライナへの戦争を支持するロシア正教会をWCCから除名すべきという声が他の加盟教会から出され、その声は日増しに強まっている。WCCがロシア正教会に対してどのような態度を示すのか大きく注目されるなか、サウカは4月14日にインタビューに応えるかたちで、「WCCが加盟教会を排除し、破門し、悪者にすることは簡単だが、わたしたちはWCCとして出会いと対話のための自由かつ安全なプラットフォームを用いて、たとえ意見が異なるときでも、互いに顔を合わせ、耳を傾けるよう求められている。これがWCCの召命である」と、ロシア正教会を即座に除名する声に反対する態度を明らかにした。…WCCはあらゆる戦争および戦時性暴力に反対し、それを神学的に正当化することを厳しく戒め、同時に、平和と和解のために相手を排除するのではなく、対話をつづけていくことを自らの召命としてきた。(pp.22-23)

この対話にこだわる姿に、キリスト教会が進むべき道が示されています。(有明海のほとり便り no.269)

お泊り保育と暑さ対策

7月1~2日、きりんさん(年長)のお泊り保育を行いました。皆さんのお祈りに守られて、大きな事故などなく、楽しく充実した一泊二日を過ごすことが出来ました。

今回準備の過程で、担任のN先生と何度も話し合ったのが、暑さ対策です。気候変動の影響で年々暑くなってきている中で、熱中症対策を万全にしなければなりません。特にお泊り保育で、ほとんどの子どもたちは、生まれて初めて、保護者のもとを離れて過ごすため、大きなストレスもかかります。

例年より帰ってくる時間を少し早めることにして、いざ出発しましたが、やっぱり暑かったです(;_;)。弁天プールは室内でしたので快適に楽しみましたが、宿泊するリバーサイドパーク七城に到着してからは、家庭へ送るハガキやスイカ割り(完全防御しつつ!)そして夕食も、急遽すべて室内(エアコンつき)に切り替えました。そのお陰もあり、誰も熱中症になることなく過ごすことが出来ました。2日目は、朝の散歩、朝食、近くの大きな公園で遊ぶのもすべて屋外でしたが、午前中ということもあり、酷暑を避けることができました。帰りにはコンビニによって、子どもも大人(!)もそれぞれ好きなアイスクリームを幸せそうに楽しんでいました。

例年だと、園までの帰りの車中では、子どもも大人も爆睡する位ヘトヘトなのですが、今年はそうでもなく、N先生と少しゆとりがあることを話しました。そのお陰もあり、お迎えに来てくださった保護者の方たちとの帰りの会でも、子どもたちそれぞれがしっかりと参加することが出来ました。

これからも色々と試行錯誤しつつ、子どもも大人もゆとりを持って楽しめるお泊り保育をつくっていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.268)

 鹿児島加治屋町教会と藤原亨牧師

鹿児島加治屋町教会での礼拝と信徒研修会へ派遣していただき、心から感謝いたします。鹿児島加治屋町教会と荒尾教会は単に同じ九州教区という繋がり以上のものがあります。荒尾教会出身教職の藤原亨牧師がかつて牧会されたのが、鹿児島加治屋町教会でした。以前、キ保連九州部会設置者園長会で鹿児島地区に古くからいらっしゃる方たちから、藤原牧師が当時教会幼稚園のためにご尽力された活躍を伺ったことがあります。

藤原牧師は隠退後、わたしが大学院時代を過ごした札幌北部教会で晩年を過ごされ、わたしが神学校に進むことを喜び励まして下さった方でもあります。そのわたしが荒尾教会に赴任し、そして本日鹿児島加治屋町教会に招いていただくことに、驚きを隠せません。そのような繋がりを先方が知っていて招かれているわけではないからです。神さまの深い導きを感じています。

藤原牧師は1955年に牧野富士夫牧師から受洗しています。『50周年誌』にその時の心境を次のように綴っています。

今は亡き外井昭男さんと文学サークルで知り合ってすぐに無理やり誘われて教会に行くようになりました。最初はイヤイヤながら行きましたが、次第に聖書の中のイエス・キリストに惹きつけられて喜んで行くようになりました。また聖書を死物狂いで読みました。もしこの中に自分を活かしてくれるものがなければ自分の人生はもうこれで終わりだと切羽詰まった思いで必死でした。そしてとうとうイエス・キリストの十字架を信じることが出来、救われ、キリスト者として新生することができました。それは教会に足を踏み入れてわずか三ヶ月の出来事でした。まさに魂のニヒリズムから解放されて、生き返ったのです。まさに私は死から甦って、新しい人生を歩み始めることが出来たのです。

この福音をこれからも分かち合っていきましょう。(有明海のほとり便り no.267)

参議院選挙と『やさしい猫』

再来週7月10日(日)に、参議院選挙が行われます。今回の参院選が終わると、3年間は国政選挙が行われないと言われています。つまり、憲法9条・経済格差・こどもの貧困・消費税・原発・コロナ対策・軍事費・外交・介護・保育・気候危機・ジェンダー平等など、わたしたちの生活にも、そして子どもたちの未来にも大きく影響してくる課題が、一気に悪化するのか、あるいはそれを食い止めることが出来るのか、分水嶺に立っているのです。キリスト者として「神の国が来ること」(マタ6:10)を真剣に祈り、選挙権がある方は特に「地の塩」(マタ5:13)としてその責任を果たしていただきたいと願っています。

小説『やさしい猫』(中島京子著)を読みました。入管(出入国在留管理局)の施設に収容されている外国人との面会を10年以上続けている宮島牧人牧師(原町田教会・原町田幼稚園)が、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんとの対談で紹介して下さっていたのです。

シングルマザーの保育士ミユキさんが、3・11被災者支援のボランティアで、スリランカ出身で自動車整備士のクマさんと出会います。数年後奇跡的に再会した二人は、ゆっくり恋に落ちるのですが、クマさんの勤務先が急に工場を畳み失業したことから、大きな試練が訪れます。十分な情報もない中で、クマさんは必死に就職先を探しますが、気が付けばオーバーステイとなります。入管に相談に行こうとした品川駅で、待ち伏せていたかのような警察に捕まり、入管職員の裁量で退去強制を決められ、入管施設に収容されてしまうのです。クマさんは心も身体もボロボロになります。けれども、ミユキさんや娘のマヤさんが、必死に裁判で闘い、入管相手に奇跡的に勝訴する…。

参院選で誰に投票すべきか、入管行政を考える上でもとても貴重な一冊です。

「わたしにしてくれたこと」(マタ25:40)とは何なのか考えていきましょう。(有明海のほとり便り no.266)

小崎弘道と番町教会

わたしたちが結婚して一緒に住む場所を探していた時、快くお部屋を貸して下さったのが東京千代田区にある番町教会でした。神学校時代の3年間を過ごさせていただき、橅が生まれたのもこの番町教会でした。わたしたちにとっては、沢山の恩人・神の家族がいる教会です。その一人が、当時牧会されていた横野朝彦牧師です。11月の創立記念礼拝にお出で下さることとなり、再会をとても楽しみにしています。

皆さんに横野先生のことを紹介するために色々と調べていたら、2014年に同志社スピリット・ウィークで奨励をされた記録を見つけました。本日配布していますので、ぜひお読み下さい。その中で、わたしたちも当時教会員だった番町教会の歴史があり、とても興味深く読みました。特に番町教会の初代牧師である小崎弘道牧師のことが綴られており驚きました。

小崎は熊本バンドの一人であり、つまり熊本出身なのです。しかもよくよく調べてみると、小崎が番町教会を牧会された4年間の間に洗礼を受けた一人に宮崎滔天がいるのです。この滔天は荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の創設者・宮崎貞子先生の伯父にあたります。荒尾教会と番町教会がこのような形で繋がることに、神さまの不思議な導きを感じています。

小崎は熊本バンドの中でも、躊躇があり洗礼を受けたのは遅く、同志社を卒業する際も一人だけ任地も定まらず「遅れてきた存在」だったそうです。けれども、この小崎がYMCA創設に携わり、またキリスト教ジャーナリズムでも活躍し、霊南坂教会や番町教会を設立し、そして新島襄の後を継いで同志社の社長(総長)になるのです。

わたしたち一人ひとりもまた「ぶどう園に遅れてきた一人」(マタ20:1-9)として、神さまの呼びかけに応えていきましょう。(有明海のほとり便り no.265)

小説『らんたん』における宮崎貞子先生の姿

柚木麻子著『らんたん』(小学館)には、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の創設者である宮崎貞子先生が出てきます。数えただけで8箇所ありました。特に貞子先生の人柄や信仰が綴られている箇所がわたし達には重要です。

 (1908年頃)「彼女と同じ学年のお貞ちゃんこと宮崎貞子はキッとなって振り返った。『菊さんたら、そんな言い方失礼よ』お貞ちゃんは、最近『小さき弟子の群』に入会したばかりの、最年少ながら河井先生を崇拝している優等生で、英語の成績は学年一番だ。」(p.142)
 (1921年)「お相手の宮崎龍介は、道の取り巻きである『小さき弟子たちの群』の一人、女子英学塾の優等生、お貞ちゃんこと宮崎貞子の親戚であり、道とゆりにとっても近しい存在だ。」(p.235)
 (1934年頃)「お貞ちゃんこと宮崎貞子も教師としてやってきたが、他人にも自分にも厳しい完璧主義は学生時代から変わらず、生徒に早くも恐れられている。」(p.305)
 (1938年頃)「社会運動家の一族で育った宮崎貞子はとりわけ強く反対の意を示した。―道先生、学校の存続は大切ですが、時勢に飲まれて国家主義の側に付いては元も子もないんじゃないですか?」(p.322)
 (1941年頃)「たまたまそれを耳に挟んだらしい、担任の宮崎貞子先生が澄ました調子でこう言った。『道先生はこうおっしゃっています。こんな古く汚く狭い学校に、御真影を置くのは、天皇陛下に失礼にあたります、と。謙遜されていらっしゃるのですよ』みんなそうなんだ、と納得していたが、生徒たちに怖がられている貞子先生の口元に、ほんのり笑みが浮かぶのを邦子は見逃さなかった。校庭の片隅の小さな家屋に年老いたお母様と暮らしている、社会運動家の一族で育ったと聞くこの先生を、邦子は最初から信用していない。」(p.344) 

平和教育を掲げている恵泉女学園が戦争への時勢に飲まれつつも抵抗した側面があり、そこに貞子先生も深く関わっていたのです。(有明海のほとり便り no.264)

小説『らんたん』と宮崎貞子先生

昨年11月に出版された歴史小説・柚木麻子著『らんたん』(小学館)を一気に読みました。主人公は、東京にあるキリスト教主義学校・恵泉女学園の創設者・河井道、そして、道と「シスターフッド」で結ばれる一色ゆりです。描かれているのは、明治維新から戦後にかけての激動の中で草創期の日本YWCAや、「平和」を掲げた女性教育のために奮闘していく姿だけではありません。津田梅子(津田塾大学)、広岡浅子(日本女子大学・大同生命)、村岡花子(『赤毛のアン』翻訳者)、矢嶋楫子(日本キリスト教矯風会)といった、日本プロテスタント教会史で重要な初代女性キリスト者たちの信仰・葛藤・出会い・喜びが、見事なタッチで描かれており、深い感動を覚えました。

さらに驚いたことに、荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園の創設者である宮崎貞子先生も出てくるのです。河井道は、アメリカのブリンマー大学留学後に女子英学塾(現・津田塾大学)で教師となります。この女子英学塾で道をとても慕う女子学生たちが「小さき弟子の群」というグループをつくります。そのメンバーの一人に、貞子先生がいたのです。「英語の成績は学年一番」(p.142)、のちに「道とゆりにとっても近しい存在」(p.235)となっていきます。そして、道とゆりは、1929年に恵泉女学園を立ち上げていきますが、1934年から貞子先生もここで教師として長く勤めることになるのです。

戦後(おそらく1946年)荒尾に帰られますが、この時期に荒尾高校の英語教師をしつつ、家庭集会を始め、1946年11月に荒尾教会を創立しました。そして荒尾めぐみ幼稚園立ち上げのために、奮闘されました。1953年から再び恵泉に呼ばれ1962年まで聖書と英語を教えられました。

教会の誕生を覚えるペンテコステに、神さまは素晴らしいプレゼントを用意して下さいました。ぜひ読んでいただきたい一冊です。(有明海のほとり便り no.263)

詩「永遠」(作:Y.H.)

孫、千晶が生まれ
この世界は千晶のいる世界となった

父、秀雄は亡くなり
この世界は父のいない世界となった

二千年前、主イエスは生まれ
この世界は主イエスのおられる世界となった

十字架で死なれ、墓を破って復活され
そしてこの世界は
永遠に主イエスのおられる世界となった
この世界は
永遠の命につながる世界となった

Yさんの詩が、『信徒の友6月号』で選ばれました。深い感動を覚えました。選者の詩人・岡野恵理子さんが次のように評しておられます。

「第一連は意味深い。愛する人の存在は世界を一変させてしまうほど大きいのだ。そして主はいつも変わらず存在しておられた。」

福音は、「福なる音」と書きます。詩で福音を証しすることは、長々しい文章で福音を描くよりも、時にずっと深く、そして広いことに気付かされます。Yさんの持つ福音の詩心を、わたし達も大切にしていきましょう。(有明海のほとり便り no.262)