賀川豊彦と荒尾教会

『こころの友』で、わたしたちの母教会である札幌北部教会の久世そらち牧師が、「イエスを愛した人列伝!」というテーマで連載しています。7月号は「賀川豊彦」でした。20世紀における日本のキリスト者の中でも群を抜いて有名な人物です。

労働運動や農民運動で先駆的な役割をにない、生活協同組合運動を推進、関東大震災の支援活動にも携わりました。ベストセラーとなった自伝的小説『死線を越えて』など数多くの著作も知られています。…いっぽう牧師として伝道に力を注ぎ、とくに戦後は全国各地でキリスト教の講演会を開催して何万人もの聴衆を集め、そこから数多くの人々が教会に足を運ぶようになりました。

1948年11月、始まってまだまだ小さな荒尾教会が坪井教会(現・錦ケ丘教会)と共に、秋季伝道集会を開催し、この賀川豊彦を招いたのです。会場は万田炭鉱の講堂であり、十分な広さにも関わらず満員の盛況だったそうです。そこでキリストと出会い、荒尾教会へと繋がり、洗礼を受けた信徒さんたちがいました。園田秀一郎さんと山野一吉さんです。

「草創期に在って」と題し、次のように山野一吉さんが綴っておられます。

神の存在と宇宙についての内容に、すっかりと吸い込まれていった。その後、三晩方(23時~7時)で坑内の仕事をしながら、考えざるを得なかった。2・3日してから、早速荒尾伝道所の門を叩いた。

山野さんの文章は、50周年誌の中で一番短いものですが、だからでしょうか、なおさら自分の胸を打ちました。坑内の深い深いトンネルの中で、まったく新しい世界観、信仰に触れたのです。まさに闇の中で、光を見出したような出来事だったのです。

この証しを、わたし達も繋ぎ、歩んでいきましょう。(有明海のほとり便り no.318)

準備された支援共同体

アメリカ合同教会のアンソニー・ロビンソン牧師が「教会だけが提供している一つのこと(The One Thing Church Offers That Others Don’t」というエッセーをブログにアップしており、興味深く読みました。

もともとはジェシカ・グロースというジャーナリストがニューヨーク・タイムズで連載した「アメリカにおける宗教の没落」シリーズの最後に、他のグループや活動では体験出来ず教会でだけで得られるものがあるとすればそれは「共同体(community)」だと指摘しているそうです。

教会に行く人達がアクセス出来る準備された支援共同体(ready-made supportive community)こそは社会全体にとって有益なものに違いありません。

この意見に対して、アンソニー牧師は同意した上で、つぎのように述べます(一部を抜粋)。

確かに教会は、生まれた時から死ぬまで、その人の人生と共に歩む力のある共同体であり、孤立社会が深刻化する中で、教会はメンタルヘルス(こころの健康)を保つために大きな役割を果たしている。けれども、「共同体(community)」は自然発生的に生まれるものではなく、労力と時間がかかるもの。牧師は教会共同体を作り上げることを求められ、尽力するが、「給料」をいただいている。わたしがいつも驚かされるのは、毎週必ず礼拝に出席し、教会のために労力と時間を割かれている、「安定し、成熟し、いつも気にかけてくれる信徒さんたち(steady, mature, caring lay members of the congregations)」の存在なのだ。

これを読み、荒尾教会だけでなく全国の教会で出会ってきた、各教会で核となる信徒さんたちのことを思い起こしました。「準備された支援共同体」としてのキリストの体を作り上げていきましょう。(有明海のほとり便り no.317)

れいはい紙芝居

新年度が始まって3ヶ月。荒尾めぐみ幼稚園・霊泉幼稚園では様々な課題が浮かび上がって来ています。視点を変えれば、それだけ保育現場が動いている証しでもあり、保育者・保護者が園児一人ひとりの園生活をあたたかく充実したものとしていきたいという願いの証しでもあります。心を込めて一つ一つの課題に取り組んでいきたいと願っています。

先日はひかり組(3・4・5歳児)のクラス参観を行いました。その日に向けて、担任のA先生・N先生が熱心に準備をされていました。嬉しかったのは、礼拝に心を向けるのが難しい何人かの子どもたちのために、A先生が手作りの紙芝居を作って下さったのです。当日は、礼拝の前にその紙芝居を読んでくれました。

神さまが子どもたちを一人ひとり見守ってくれていること、お祈りは自分のことだけでなく、周りの人たちのことを覚えて祈る大切さ、食前の祈りでは食事への感謝と共に、いま食卓を囲うことが出来ていない友達を覚えて祈る大切さ…。

子どもたちだけでなく、参加した保護者に、一つでも響くところがあったことを願っています。

キリスト教保育に欠かせない礼拝・お祈りですが、ともすればなぜ子どもたちと礼拝を行っているのか、その意味を見失ってしまい、単なる「朝のお集まり」になりがちです。もちろん「朝のお集まり」にも意味はありますが、「遊び」を中断してまで行うことなのか、よく分からなくなっていく…というのが、特に3・4・5歳児の担任の先生たちの正直な思いではないかと感じています。その疑問に対して、きちんと答えることが出来ていない牧師園長の自分にもどかしさを感じてもいる中で、2年目のA先生が一生懸命に考え紙芝居に繋げていった姿に、励ましと学びをいただきました。(有明海のほとり便り no.316)

教会マネジメント

先日、県庁で園長等研修が行われ、「保育の質向上と組織マネジメント~チーム・組織で実現する保育の質と園長の役割~」と題して、井上眞理子先生(洗足短期大学)より講演がありました。とても有意義な学びでした。

まず、「マネジメント」というと、漠然と様々な経営管理のことを指すと思っていましたが、誤解でした。

マネジメントは方法論ではない。考え方(思考法)を学ぶこと
①実際に起きている課題・事件の分析から始める →事件の原因を探っていく
②成功事例からヒントを得る →そのために事例集などを参考にする
③園にフィットするようにカスタマイズする →園にあった小理論を作っていく。

そして、「マネジメント」のキーワードとして「組織」があります。

組織の成立条件
①目的の共有→法人理念・保育理念が最低1つでも共有されているか?
②貢献意欲→理念実現のために専門性を組織に対して発揮しているか?
③コミュニケーション→目的のために情報共有し協同的に支え合っているか?
サッカー日本代表は組織だが、渋谷の交差点にいるたくさんの人たちは組織ではない。

いま教会という「組織」においても、マネジメントが求められています。もちろんお金儲けや単なる組織拡大ではなく、福音の分かち合い(宣教・伝道)と奉仕というミッションのために。

では、荒尾教会が直面している課題は何でしょうか? 荒尾めぐみ幼稚園の運営、霊泉幼稚園の建替え、信徒の高齢化、教勢の広がりの難しさ、会堂設備のメンテナンス、地域の人口減少…  尽きませんが、祈り支え合いつつ楽しくマネジメントしていきましょう。(有明海のほとり便り no.315)

在日大韓基督教会を覚えて

友人の金耿昊(きむ・きょんほ)さん(敬和学園大学准教授)が、月刊誌『福音と世界』で新しく連載を始めました。「地域から考える在日朝鮮人史と教会史―関東大震災から100年をおぼえて」と題して、歴史学を専門とする耿昊さん(在日三世)による小論です。最初の掲載となった4月号では、生い立ちについて書かれていました。

小さい頃から、両親と祖父母が通う在日大韓基督教会Y教会の礼拝に出席していましたが、「在日としての誇り」の内実がない中で、大学で朝鮮の歴史や韓国語の学びを始めていきます。2006年に韓国へと留学しました。

留学から帰ってきてみると、祖父母の祈る言葉、韓国語の讃美歌や説教の中身が分かるようになっていた。在日教会は日常では日本人に取り巻かれる中、自分の言葉と思いを吐露できる場所でもあった。それが教会に来る人の心の支えになっていることも理解した。そういう場所を支える意味を実感したことで、私は洗礼を受けることにした。
また私は日本において、朝鮮への加害の歴史に真摯に向き合うキリスト者にも出会うことができた。そうした人々の言葉に触れながら、私は少しずつキリスト者として今を生きることの意味を学んでいったのだった。

耿昊さんがこのような思いをもって、キリスト者となっていったことを初めて知りました。同時に、わたし達は在日教会に生きる方たちのことを、あまりにも知らなさすぎるのではないかとも、思わされました。

この熊本地区にも在日大韓熊本教会があります。K牧師は、同じ農村伝道神学校の出身で、いつもお支えいただいています。日本基督教団と在日大韓基督教会は1984年に宣教協約を結んでいますが、この関係をさらに深めていきたいと願っています。(有明海のほとり便り no.314)

キ保連熊本地区春季保育者研修

とても久しぶりに対面での春季保育者研修が日本福音ルーテル熊本教会で開かれ、明世先生と参加しました。コロナ禍以前は、新任保育者を対象としたこの研修が、牧師園長としての学びにも深く繋がり楽しみにしていましたが、同じ感動を今回も味わうことが出来ました。

熊本教会の小泉嗣牧師による礼拝を守り、そして「尊くおごそかで、気高く犯しがたい」と題して牧師より講演をいただきました。新任保育者にも分かりやすく、キリスト教について、キリスト教保育についてまとめてくださっていました。

・キリスト教人間理解の大前提は「命は神が与えたもの、命は神のもの」
 =生きていると同時に生かされているわたし達
 ・人間は神になることは出来ない。
 ・人間は人間以下になることもない=人間は等しく尊厳を持つ
 ・イエス・キリストは、罪を犯す人間の身代わりとなって十字架に死に、神の命に生きることの素晴らしさを、復活をもって証明した。
 ・キリスト教保育の中心にあるものは「尊厳=尊く、おごそかで、犯してはならない」
 ・この尊厳は、子どもたちだけでなく、保護者にも、保育者一人ひとりにもある
 ・キリスト教保育は、イエスの教え(=神の国・神の愛・隣人愛)そしてイエスの養護(ディアコニア=あらゆる苦難をしている人に仕える)に学ぶ(=まねぶ)

午後は、「キリスト教保育と賛美」と題し、こひつじ保育園の犬童れい子先生より讃美歌指導がありました。「讃美歌は祈りであり、感謝であり、願いであり、聖書からのメッセージでもある」という言葉が胸に響きました。(有明海のほとり便り no.313)

大江健三郎著『新しい人よ眼ざめよ』

3月に召された大江健三郎のことを先週書いたところ、ある信徒さんから『「新しい人」の方へ』という本があることを教えていただいた。子どもたちに向けた言葉遣いで書かれている、人生の習慣についてのエッセー集(2003年出版)で、あいにく読んだことがなく、早速取り寄せることにした。

まだ読んでいないので確かなことは言えないが、大江が言っている「新しい人」とは、おそらくブレイクの詩から採っている。なぜなら先週紹介した『宙返り』の次によく読んだ『新しい人よ眼ざめよ』(1983年出版)を思い出したからだ。大江の長男にあたる光(ひかり)さんは知的ハンディキャップと共にありつつ、作曲家として活躍している。大江の小説には光さんをモデルとしたであろう人物が様々な名前を持って出てくる。『新しい人よ眼ざめよ』は、「イーヨー」という名前で出てくる光さんを中心とした家族の物語となっている。

物語の終盤に、はじめての寄宿舎生活から戻ってきたイーヨーが夕飯の食卓に誘われた際、それを固辞する場面が出てくる。まわりの家族は困惑する中、弟だけが理解し、「イーヨー」ではなく本当の名前「光さん」と呼びかける。するとその呼びかけを受け入れた光さんと弟の二人が肩をくんで食卓へとやって来る。それを見た大江はブレイクの『ミルトン』という詩を思い起こす。

Rouse up, O, Young Men of the New Age! Set your foreheads against the ignorant Hirelings!
めざめよ、おお、新時代の若者らよ!無知なる傭兵どもらに対して、きみらの額をつきあわせよ!…「生命の樹」からの声が人類みなへの励ましとして告げる言葉を、やがて老年をむかえ死の苦難を耐えしのばねならぬ、自分の身の上にことよせるようにして。 

人生の励ましに満ちており、ぜひ読んでいただきたい一冊。(有明海のほとり便り no.312)

大江健三郎著『宙返り』

大江健三郎が召されたと知って、ショックを受けた。いまだに、どうこの思いを処理したらよいのか、よく分からない日々が続いている。

まず手にしたのは、文芸雑誌『新潮』5月号。「永遠の大江健三郎文学」という特集が組まれており、3月に召された大江健三郎に12名の方たちが追悼文を寄せている。改めてわたしにとって、大江健三郎はなくてはならない日本文学者の一人で、いやなくてはならない「たった一人」かもしれない。

『宙返り』という文庫本が2002年に講談社から出ている。本屋でたまたま目にしたその文庫を開いてから、わたしの中にあった「小説」観が大きく変わった。自分が欲していた「物語」がここにあったのだ。

小さな頃から教会に通い、高校でも全寮制のキリスト教が基盤にある生活を過ごしていたわたしは、どこか日本社会の中で「少数者」であることを痛感もしていた。魂の問題に関して、日本社会はどこまでも曖昧さをもち、応えていないように感じていた。そんなわたしのモヤモヤが、『宙返り』を読んだ時に一気に開いていったのだ。

『宙返り』は、元カルト集団に焦点を当てて物語が進んでいく。登場人物たちの間で、ずっとテーマとして出てくるのは、ヨナ書だった。神学校の旧約の授業でヨナ書に関してのレポートを求められた際、正解と思われる神学書等からの引用のまとめはせずに、あえてこの『宙返り』を軸に自分なりに論を展開したことがあった。当然ながら、M先生からは渋いコメントだったが…。

『宙返り』以来、大江作品を貪るように読んだが、最も繰り返し読んだのは『宙返り』だった。あまり評価されていない作品に感じるが、一読の価値はあるので、ぜひ図書館などで探してほしい。(有明海のほとり便り no.311)

九州教区教会幼稚園・保育園設置者・園長会

キリスト教保育連盟は主にプロテスタントの幼・保・こが集まる教派を越えたネットワークです。明後日の九州部会総会で次の担当地区へと役員を引き継ぐことで部会長の任期終了です! コロナ禍の2年間でしたが、特に共に役員をして下さった方たちとの出会いは、かけがえのないものでした。これまでのお支えとお祈りに感謝いたします。

さて、九州教区に連なる幼・保・この中には、キ保連に所属しない園も多くあります。そういった園は「日本キリスト教保育所同盟」といって保育園が中心となるネットワークに属していたりと、様々です。

九州教区に連なる幼・保・こへ年に1回呼びかけての設置者・園長会を、教区では大切にしてきました。普段のネットワークを越えて、教会付帯施設としての労苦を分かち合ってきたのです。けれどもコロナ禍で、3年間行うことが出来ませんでした。

教区内乳幼児施設の繋がりが年々重要になっていることを、牧師園長として痛感しています。少子化における需要と供給の逆転、教会員の高齢化、園長に求められる資質の多様化など、課題が尽きない中で、教区内でも2園が今年度一杯で閉じることを決定したことを総会で知りました。両園とも荒尾教会・山鹿教会と同じ小さな地方教会が建てた園です。そこに注がれた祈り・奉仕・献金はいかばかりであったでしょうか…。待ったなしの状況が目の前に迫ってきています。

2023年度・2024年度の九州教区園長会の担当が熊本地区となり、牧師が事務局を担うこととなりました。霊泉幼稚園園舎建築と重なりますが、少人数でも温かい交わりと祈りの場となることを願っています。(有明海のほとり便り no.310)

教区総会を終えて

久しぶりの「フル日程」教区総会が福岡中部教会で開かれました。

主に3つの議案が可決されました。「九州教区宣教基本方策制定に関する件」に関しては、素案作成に伝道センター委員として携わりました。基本方針をもとに制定する基本方策は2年毎に振り返り話し合います。今までの方策に加えて「カルト問題」「気候変動」「排外主義」「格差」の課題が加わりました。政治と宗教は違うという意見もありましたが、それぞれ<いのち>に直結する課題であり、キリスト教会が取り組むべき課題です。各個教会ではなし得ないことを、教区において取り上げていく必要性を強く感じました。

「新たな大規模災害に備える件」では、「熊本・大分地震」救援対策本部を閉じると同時に、新たに「エルピスくまもと運営小委員会」と「災害対応準備小委員会」が立ち上がりました。特に「エルピスくまもと」に関しては、武蔵ヶ丘教会がセンターとしての責任を担って下さいます。また、幼稚園では軽トラをお借りしています。中長期支援へ入っている被災者支援を覚え続けていきましょう。

「日本の軍事大国化に反対し、平和を求め続けることを表明する件」では、防衛予算を倍増して軍備増強へと突き進む日本政府に対して反対し、平和を求め続けることを決議しました。「戦争責任告白」にあるように、太平洋戦争で犯した罪を告白し、「見張りの使命」が託されています。

また、互助献金への参加教会が少しずつ増えて来ていますが、まだ目標金額には届かず、経済的にとても苦しい教会や牧師家族がおられます。九州教区では神学的・歴史的な違いなどを越えて、祈り支え合っています。引き続き、荒尾教会でも互助献金を捧げていきましょう。(有明海のほとり便り no.309)